跡部の試合は、まさに圧巻としか言いようがなかった。
試合前のパフォーマンスは別にしても、彼のプレイはお世辞抜きで今まで見た誰よりも上手かった。
の従兄弟達もテニスをしており、その実力も相当なものだと思うが、正直その彼らよりも跡部の方が実力は上なのではないだろうかと思う。
跡部が全国でも有名な選手で、またジュニア選抜にも選ばれるほどの実力者だということは、当然ながらは知らない。
だが、何も知らないをここまで魅了できる跡部のプレイは、やはり別格と言えた。
息を乱すことなく終了した試合を最後に、練習試合は終了した。
相手校に挨拶をすませ片付けを終了して、それでマネージャーの仕事も終了となるはずだった。
だが…。
「何でここにいるの?」
氷帝学園テニス部の送迎バスに乗りながら、は首をひねる。
スコアもしっかりとつけ持ってきた道具もすべて片付けて、他の部員がバスへと向かう姿を笑顔で見送り、では自分もそろそろ帰ろうと持参したスポーツバッグを探して、それがないことに気がついた。
ぼんやりしていることはあるが基本的にしっかりした性格なである。
荷物を置いた場所を忘れるはずはない。
ましてやあれだけの大きな荷物だ。
誰かが間違えて持って帰るということも、可能性としては低いだろう。
きょろきょろと彷徨わせた視線の先、バスに乗り込もうとしている長太郎の肩に担がれたのバッグを発見して慌てて追いかけたは、例にもれずバスの近くで足をもつれて転びそうになり、支えられた跡部の手に引かれるままバスに乗り込んでしまったのだ。
としては臨時のマネージャーだし、学校に戻るよりも直接家に帰ったほうが近いという理由で辞退していたのだが、元々フェミニストの多いテニス部のメンバーが大荷物を抱えたをそのまま帰すはずなどなく、荷物の引渡しを拒否している間にバスが発車してしまったというわけだ。
勿論それが彼らの作戦だったのは言うまでもないが。
「まだ怒ってるの?」
「怒ってないもん」
不機嫌さを隠そうとせずにぷいと横を向いてしまうに、長太郎は苦笑する。
本気で怒っているわけではないが、それでも納得できないのだろう。
「あんな大きな荷物なのに、俺達が君を電車で帰らせるはずないじゃないか」
「別に持てない重さじゃないもの。お弁当だって皆食べてくれたから朝より軽くなってるし」
「でも、俺達の気がすまないのはわかってくれるよね」
「わかるけど、でも…」
「それにさ、もう動いてるんだから諦めなよ」
「そうなんだけどっ、でも何か納得いかない!」
大したことしてないのにと口を尖らせるだが、実際彼女の働きは素晴らしいの一言に尽きた。
の性格を知っている長太郎や跡部は彼女がしっかりとマネージャー業をこなしてくれるとわかっていたが、ほとんど初対面に近い他の正レギュラーにしてみれば、小柄でどこか頼りなく見えるにマネージャーの仕事がこなせるかどうか半信半疑だった。
跡部が太鼓判を押した人物だからまったく使えないことはないとは思っていたが、実際彼女の仕事ぶりを拝見して、その細やかな気遣いと仕事の段取りの良さは、臨時とは到底思えないものがあった。
可愛くて仕事ができて、そして料理上手。
彼らがを気に入るのは当然のことだった。
「何だ、まだぐだぐだ言ってんのか?」
「ぐだぐだなんて言ってません」
「じゃあ何だよ?」
「…………」
言い返す言葉がなくてむくれるの姿に、跡部が面白そうに口の端を持ち上げる。
同学年の気安さかそれとも親密度の違いからか、長太郎には何でも言えるが、さすがに相手が跡部ではそうはいかないのだろう。
「往生際の悪いこと言ってるんじゃねえよ。もうすぐ学校だ。大人しくしておけ」
「……わかってます」
不満そうに、だがようやく諦めたのか、が小さく頷く。
「だが、初めてにしてはよく働いてくれた。助かったぞ」
「どういたしまして」
くしゃりと頭を撫でられて、は嬉しそうに微笑んだ。
「お前は有能だな」
「え?」
不意にそんな言葉をかけられて、は意外そうに目を見開いた。
にとって今回のマネージャー業務はそれほど大変なものではなかったし、礼を言われるほどのことをした覚えもなかったからだ。
「いや、俺の知っているマネージャーでもあれだけ働ける奴はそういない。料理もなかなかの腕だし、何よりもよく気がつく」
「えっと、そんなことはないですよ。できることしかしてませんし。マネージャーなら当然のことじゃないですか」
「その当然のことができないから、うちにはマネージャーがいなかったんだよ」
「…それは困りますね」
「まあな…」
跡部の言葉には大変そうに眉を顰めるが、その言葉の裏に隠された真意をは気付いていない。
長太郎は察したようだが、元より跡部に反対するつもりはないのでしっかり口をつぐんでいる。
友人の朱夏曰く、『馬鹿がつくほどのお人よし』であるだが、理不尽なことにな頑として首を縦に振らないという意志の強さがある。
その反面賛辞に弱いという一面があり、またとんでもなく情に弱いという致命的な弱点もあった。
それほど多くない接点から彼女の弱点を的確に発見した跡部はさすがと言える。
シートに沈む跡部の様子はひどく疲れているようで、は気遣わしそうにその顔を覗きこんだ。
「あの…大丈夫ですか?」
「悪い…水取ってもらえるか」
「あ…はい」
差し出したミネラルウォーターを飲み干して、跡部は大きく息をつく。
「跡部先輩、忙しすぎなんですよ。部活だけでなく生徒会もあるんですから、少しは休まないと」
「そういうわけにもいかないだろう」
「でも、無理して身体を壊したら何にもなりませんよ」
「そこまで無茶はしてねえよ」
そう言って笑う姿はどこか気怠げで、多忙を極める跡部の疲労の深さを窺わせた。
学年主席の生徒会長、全国大会出場のテニス部主将という肩書きは一見華やかだが、その肩書きを維持するにはそれなりの労力が必要なはずである。
特に氷帝学園は生徒会の権限が強く、学校側からもそれなりの重責を負わされていることだろう。
いくら跡部がオールマイティな人間だとしても、それだけの期待と重責は辛いのだろう、とは眉を顰める。
最も跡部にはそんなこと重責でも何でもないのだが、がそれを知るはずもない。
弱さを見せているのは、当然のことながらをテニス部のマネージャーとして引きとめようという演技だ。
跡部は無能な人間には用はないという、徹底した実力主義だ。
その跡部が認めたという人物。
運動能力は限りなく低そうだが、マネージャーとしてはおそらく自分の知る誰よりも適任であろう。
テニス部にとってマネージャーがいないということは、それなりに不都合を感じるものだった。
平部員で仕事を分担すると言っても、やはり男所帯。
部室の掃除やら備品の管理などにはやはり杜撰で、それが跡部の気がかりの1つでもあった。
応援に夢中になるあまり試合のスコアを付け忘れていたことも一度や二度ではない。
結果としてスコアなどの記録は正レギュラーが担当することになり、テニスだけに打ち込める状況ではなくなっていた。
更に頭を悩ませるのがマネージャー志望の女子生徒の多さだった。
明らかに不純とわかる動機に聞く耳すら持たないでいたのだが、どうやらここ最近になって益々エスカレートしているらしいそれは、ギャラリーで騒ぐ生徒よりもむしろ性質が悪かった。
をマネージャーにすれば、それらの雑音がすべて解消されるとなれば、跡部だって演技の1つや2つしようというものだ。
痛ましそうに自分を見つめる黒目がちな瞳に、何も知らない子供を騙しているみたいで多少心が痛むが、だからといって使えるものを放っておく手はない。
「本当に本当に無茶をしないでくださいね」
「あぁ、肝に銘じておくよ」
「自分1人で何でもしようとしたら駄目ですよ。私で力になることでしたら何でも協力しますから」
「…………」
「跡部先輩?」
「………今の言葉、本当か?」
「?…はい」
見つめる瞳に何かあると思ったが、考えるよりも前には頷いた。
そんなの前で跡部の腕がすっと伸び、パチンと指が鳴った。
「おい、お前ら。マネージャー決定だ」
「え?」
途端にバスに響く歓声に、はわけがわからないと言った様子できょとんと周囲を見回し、そして目の前の跡部が満足そうに笑っている姿を見て、ようやく自分が嵌められたことに気がついた。
「あ…跡部先輩!!」
「何だよ?協力してくれるんだろ?」
「でも、私はもう料理部に…」
「あぁ、あっちの部長となら週1の活動に今まで通り出ることで話はついているし、こっちもそれで構わない。氷帝は兼部を認めてるしな」
「でも…でも…」
「有能なお前が悪い。諦めるんだな。何でも協力するって言ったろ?何でも、な」
あっさりと言われてしまい、は言葉を失う。
見事に言質を取られてしまったことも悔しいが、それよりも何よりも親友である朱夏が自分に内緒でテニス部にの入部を許可していたことに驚いていた。
彼女が自分に不利になることをするような人ではないとわかっているが…。
だがしかし…。
「朱夏ちゃんの馬鹿〜〜!!!!」
こうして、氷帝学園テニス部にマネージャーが誕生した。
- 06.08.13