ベンチの方から小さな声が聞こえ、ふと振り向いた先では、臨時マネージャー(現時点では)が何かを考えるように眉を顰めていた。
膝の上には広げられたままのスコア表。
片手にはペン。
そのペンを無意識に弄びながら、は普段よりも少し厳しい視線でコートを見つめている。
さきほどまでにこやかな笑顔で応援していた彼女の一変した態度に、隣に座っていた跡部が怪訝そうにへと視線を向ける。
コートで試合をしているのはダブルス1。
忍足・向日ペアである。
圧倒的な実力の差で、すでにカウントは5-0となっており、岳人は余裕の表情でムーンサルトを決めている。
自分の得意技をに披露して、少しでも彼女の印象をよくしようという目論見は、だがしかし目の前のの様子を見ると、正反対の結果しか生まなかったようだ。
氷帝にポイントが入ると、はそのつどスコア表に記入していく。
跡部がの膝の上にあるスコア表に視線を落とすと、そこには対戦校の選手及び忍足と岳人の試合内容が細かく記載されていた。
思わず目を瞠るが、はそんな跡部の様子にはまったく気付かず、さらさらとペンを動かし、そしてコートへと険しい視線を向けている。
氷帝のセットポイントとなった時、が小さく呟いた。
「このダブルス、あまり好きじゃない…」
「あぁ?」
おそらくは独白のつもりだったのだろう。
だが実際には声に漏れていて、跡部は訝しそうにを見下ろした。
その声に気付いたは慌てて口を押さえるものの、出てしまった言葉は戻らない。
ちらりと上目遣いで自分を見る姿は、どこかバツが悪そうだ。
「何が気に入らねーんだ、お前は」
「気に入らないというんじゃないんですけど…、あまり好きじゃないなぁと…」
「同じじゃねえか」
「う……」
跡部の言葉に、はぼそぼそと答える。
忍足と岳人のペアは、全国でも知名度が高い。
俊敏な動きで相手を霍乱する岳人のプレイスタイルと、氷帝の天才と呼ばれるほどの実力を持つ忍足の2人のテニスは派手で、見ごたえのある試合になっている。
だが、はそれが気に入らないようだ。
「ほら、言ってみろ。何が気に喰わないんだ」
「気に入らないっていうよりも…相手に失礼です」
数瞬思い悩んで、それからはきっぱりと言い放った。
「見てください」
す、と伸ばされた指の先には相手校の選手達。
コートの上でボールを追いかけている様子は、真剣そのもの。
圧倒的な実力差のせいかセットを取るまではいかないが、それでも1ポイントでも多く取ろうと必死である。
「あいつらがどうしたってんだよ」
「一生懸命試合してますよね」
「あぁ」
「でも」
再び伸ばされた指の先には、余裕の笑みを浮かべた岳人と、どこか相手をからかっているように見える忍足。
本気で対戦すればとうに終わっているであろう試合は、まるで大人が赤子を弄ぶかのように続いている。
相手の選手は立っているのもつらそうなのに、彼らはそれこそ息も乱れていない。
「跡部先輩ならわかりますよね。これがどういうことか」
「……」
「明らかに手を抜いてるんですよ」
そう言って振り返るの瞳には厳しい光が浮かんでいた。
「ゲームアンドマッチ!氷帝、忍足・向日」
審判の声で最後にスコア表にペンを走らせると、は無言で立ち上がった。
哀しそうな顔で跡部へ振り返り、
「これが、氷帝学園のテニスですか?」
そう言うと、タオルを数枚掴んで歩き出した。
は上機嫌で戻ってくる2人に無言でタオルを渡すと、そのまま相手選手の下へ歩いていく。
てっきり「お疲れ様でした」と笑顔で迎えてくれると思っていた2人は、呆然と立ち止まってその後ろ姿を見送ったまま。
相手の選手に何やら話しかけているの姿を、不思議そうに見ている。
「何や、彼女?」
「何かあったんか?」
彼女の行動がわけがわからないというように首を傾げる2人に、跡部は舌打ちした。
マネージャーに勧誘するために自分達の試合風景を見せようとしていたのに、これでは逆効果だ。
「てめえら、学校戻ってグラウンド30周してきやがれ」
「何でや!?俺ら勝ったやん!」
「そうだよ!それも6-0だぜ?」
「見え透いた手抜きしやがって。あいつが怒るのも当然だ!」
試合内容を指摘され、岳人が返答に詰まる。
「いつから氷帝は弱いものいじめをする学校になったんだ?試合の時はどんな相手だろうと手を抜くなというのが、氷帝の方針だったんじゃないのか」
「……」
「あいつはそのへんの女とは違うって、俺も長太郎も言ったよな。全然聞いてなかったのかよ」
呆れたような跡部の声に、岳人は小さな背をさらに小さくする。
「少しは反省しろ」
そう言い捨てて去っていく跡部に、2人は返す言葉がなかった。
確かに今の試合は、相手があまりにも弱くて本気で対戦していなかった。
それどころか、遊んでいたと言われれば否定することはできない。
珍しくベンチに女の子の姿があるのに浮かれていたのも事実。
ギャラリーの女の子には十分すぎるほどのパフォーマンスだったが、一番喜んでもらいたい相手はどうやら喜んでくれなかったらしい。
持っていたタオルを相手の選手に渡し、ぺこぺこと頭を下げるの姿を見るのは、何だかひどく空しかった。
「いつまで、そこに立ってるんですか?」
いつのまに戻ってきたのか、ベンチの前に呆然と突っ立ったままの2人を見て、が声をかけた。
その表情が試合前に比べて険しいのは、先ほど跡部が告げた通りの意味なのだろう。
「試合後は水分補給しないと駄目ですよ」
そう言いながら2人の背中を押してベンチへと座らせる。
笑顔こそないものの、甲斐甲斐しく世話をしてくれる彼女。
試合を楽しみにしてると、笑って送り出してくれたのはほんの少し前のことなのに。
見ている方が幸せになれるような、ほんわかとした笑顔。
それを消したのが自分達なのだと思うと、ひどくやりきれなかった。
「…ごめん」
「俺らが悪かった」
ドリンクボトルを受け取りながら、そう呟く。
はじっと2人を見下ろした。
「もう、しませんか?」
こくん、と頷くのを見て、はため息をついた。
「だったら、いいです。相手の人に失礼なんですからね。本当に止めてくださいよ?」
人差し指を2人に突きつけて、は少し怒った口調で言う。
だが、その声は先ほどより随分柔らかい。
顔を上げた先にあるのは、困ったような、だが優しいの顔。
「ちゃ…」
「2人とも、お疲れ様でした」
そう言って、はふんわりと笑った。
- 06.02.14