キッチンに向かう時間。
それは不思議と心を穏やかにさせてくれる。
は鼻歌を歌いながら、鮮やかな手つきで出汁巻き卵を完成させた。
くるん、とフライパンをひっくり返し、綺麗な焼き色を付けた卵が皿の上に移される。
「よっし、卵焼き完成」
年齢こそ中学2年生だが、の料理歴は長い。
実際に包丁を握らせてもらったのは小学生になってからだが、幼い頃から毎日母親の料理を傍で見ていたのだ。
が料理に関心を持ったのが嬉しかったのか、料理研究家である母は、それこそがまだ小さい頃から職場にも同行させて、その手つきを披露してくれた。
お陰での手つきはすっかりプロ並みだ。
『料理はね、食べてもらう人のことを考えて作れば、誰でも美味しいものが作れるのよ』
母親の言葉の通り、の料理は愛情に溢れている。
だからこそ、美味しい料理ができるのであり、自身が多くの人に受け入れられているのだ。
尤も自身はまったく気付いていないのだが。
最後の料理を重箱に移すと、はテーブルにずらりと並んだ大量のお弁当を見て、満足そうに微笑んだ。
「和・洋・中揃って見た目も栄養も十分。よし、上出来」
本日は氷帝学園テニス部の練習試合だ。
先日宍戸と約束した通り、差し入れを作ることにしたのだが、よく考えてみればテニス部のレギュラーの好物が何か知らなかったは、なるべく沢山の種類を作っていこうと決めたのだ。
好き嫌いはあるだろうから、食べられないものがあっても無理はないけど、なるべくなら美味しく食べてもらいたいのだ。
「これだけあれば、好き嫌い多くても平気よね」
ずらりと並んだ色とりどりの料理を前に、はそう呟いた。
「あらあら、随分沢山作ったのね。何十人分?」
「うふふ、すごいでしょ」
半ば呆れたような母の声に、は嬉しそうに答える。
確かに女性が食べるには多すぎる量だが、今回の相手は成長期の男子。
それも運動後とくれば、食べる量は半端じゃないはず。
むしろこれでも少ないくらいではないかと思っているほどだ。
「でも随分ゆっくりしてるけど、大丈夫なの?開始時間9時とか言ってなかった?」
「大丈夫。だってまだ時間が……」
ひらひらと手を振って母に答えようとしたが、壁の時計に目をやって固まる。
「はちじ…にじゅうご、分…?」
「確か20分の電車に乗るとか言ってたわよね」
は左手の腕時計に目をやった。
「7時55分…」
さあっ、と顔色がなくなったに、我が娘のドジっぷりを熟知している母親は、ため息とともに自分が持っていた携帯のディスプレイをに突きつけた。
そこに記されていた時刻は、紛れもなく8時25分。
はしばし呆然としていたが、やがて小さく息を飲み。
「いやーーーっ!遅刻ーーーーー!!!」
静かな住宅街に少女の悲鳴が響いた。
「遅いな…」
腕時計に視線を移して、宍戸は呟いた。
昨日話した時、確かに時間は告げたはずだ。
9時に始まるから、10分前には会場に来てくれと。
告げた覚えはあるし、そのとき潜んでいた忍足達もしっかりと聞いていたので、言い間違えたということはない。
再び時計に視線を戻すと、8時52分。
長太郎の話を聞く限り、彼女は時間にルーズな性格ではないということなので、もしかしたら何かトラブルに巻き込まれているのかもしれない。
「もしかして道に迷ってるとか?」
「でも、ここ間違えようがないと思うんですけど。駅からバスで1本だし」
「寝坊したとか?」
「それは連絡が入ると思いますよ」
「どこかで転んでるとか?」
「…それは否定できないですね」
やはり学校から一緒に来ればよかった、と長太郎が心の中で呟いたとき。
ものすごい勢いで走ってきた車が、正門前で停車した。
一見して高級車と分かる、真っ赤なアルファロメオ。
窓にはスモークが張られているため、中の様子は伺えない。
一体何事かと、突然の出来事に呆然と声もない2人の前で扉が開き、そこから見知った少女が姿を現した。
長い髪を頭上で無造作にまとめ、氷帝学園の制服に身を包んだ小柄な少女。
「!?」
「さん?」
「あ、宍戸先輩、鳳君。おはようございます」
宍戸と長太郎に気がついたは、にっこりと手を振る。
突然現れた高級車から下りて来た少女に、周囲の視線は当然の如く集中しているのだが、当然のことながら周囲の視線に頓着しないはまったく気付かない。
「少し遅れちゃいましたね、すみません」
「いや…」
「でも、ちゃんと差し入れ持ってきましたから、それで帳消しってことでお願いします」
ぺろ、と舌を出しておどける少女に、宍戸は呆れたようにため息をついた。
は車の後部シートから大きな荷物を引っ張り出すと、運転席に向かって笑顔を向ける。
「ありがとう、お母さん。おかげで間に合ったみたい」
「そう、ならよかったわ」
運転席から微笑みかけるのは、の母――料理研究家として多数のテレビにも出演している弥生の姿。
血の繋がりを感じさせる艶やかな容姿は、ブラウン管を通して見るよりも、ずっと若々しくて優しそうだ。
「じゃあ、この子のことよろしくね。ちょっとドジだけど」
「あ、はいっ」
「ドジじゃないもんっ!」
にこり、と艶やかな笑顔を向けると、弥生は来た時と同様見事なドライビングで去っていった。
「じゃあ、テニスコートに行きましょうか。皆さんお待たせしちゃってるでしょうし」
「あっ、あぁそうだな。早くしないと跡部の雷が落ちるかもしれないしな」
「そうですね…って、ちょっと待ってさん」
車から下ろした荷物を躊躇なく肩に担いだに、長太郎が慌てて止める。
「何?」
「何って、それを自分で持ってくつもりじゃないよね?」
「え…だって、私の荷物だもん。私が持つのが当然でしょ?」
きょとんとした顔で自分を見上げるに、長太郎は毎度のことながら頭痛を覚えて額を押さえた。
確かに自分の荷物は自分で持つのが当然だ。
だが、今が肩に担いでいるのは、旅行に行くのかとでも言うような大きなスポーツバッグだった。
一瞬ふらついたことから、その大きさに見合うだけの重量なのだろうということは、想像に難くない。
おそらくこの中身の大半が「差し入れ」なのだろう。
「…」
「宍戸先輩まで何ですか?早くしないと時間になっちゃうのに」
自分の行動の何が2人を悩ませているのかまったく見当のつかないは、2人を見上げて頬をふくらませる。
「何のために俺達がここにいると思ってるの?」
「さあ?」
何で?と逆に聞かれて、2人はさらに脱力した。
長太郎は無言での荷物を奪い取った。
肩に担ぐと、やはり相当な重量を感じる。
「荷物持ちに決まってるじゃないか」
「え!?駄目だよ、重いんだから」
「重いから持つんだよ」
「そういうこと。ほら、行くぞ」
「だって…」
慌てて奪い取ろうとするを笑ってかわしながら、長太郎はさっさとコートへと歩いていってしまう。
がそれに追いすがるように走っていき、もつれて転びそうになったところで予測していた宍戸に支えられ、腕を引かれるままコートへと運ばれた。
大勢の部員と応援らしき女子生徒の中央に、彼らはいた。
氷帝テニス部員200名の憧れの存在であり、全国でも有名な正レギュラー。
多くのテニス雑誌にも取り上げられて、その人気は下手なアイドルよりも高い。
尤もそんな事情など欠片も知らないは、初めて見る正レギュラーに向かってにっこりと微笑みかけた。
「初めまして。臨時マネージャーになりましたです。皆さんの足手まといにならないように頑張りますので、今日一日よろしくお願いします」
かくして、波乱に満ちた1日が始まった。
- 06.01.22