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飛び込んだうさぎ


週末が近づいてくるにつれ、周囲の様子が何だか慌しい。
男子は落ち着きをなくし、女子は極一部を除いて浮かれている。
世間の情報に疎いは、当然ながらその極一部の女子に当てはまる。
周囲が浮かれている原因がわからず、ひそひそ話しながらきゃあきゃあと騒いでいる女子の態度が不思議でならないのだ。

「…何かあるの?」

時折「跡部様が…」とか「宍戸先輩って…」などという単語が聞こえてくるので、おそらくはその騒ぎの中心は男子テニス部なのだろうと思うのだが、彼らが騒がれるのは日常のことなので今更驚くことではない。
では何故だろう、とは首を傾げる。

「……」
「?何、朱夏ちゃん?」

目の前にいる親友が額を押さえてため息をついたのが視界に入ったのでそう訊ねたのだが、朱夏の返事は先ほどより大きなため息だった。

「……あんた、ニブすぎ」
「どうしてよ」

ぷくっと膨れると、朱夏は諦めたのかの隣の席を指さす。
授業が終わると部活に飛んでいく朱夏の幼馴染は、すでに教室を出ている。

「鳳君がどうしたの?」
「最近教室に来るの、遅いと思わない?」
「テニス部の朝練でしょ。いつものことじゃない」
「いつもは始業の10分前には来てるチョタが、最近はずっと始業ギリギリだよね」
「そういえば…」

言われてみると、ここ数日は教室に来るのが遅い。
HRが始まる寸前に駆け込んでくることも珍しくなかった。
それに何やら日々を追うごとに疲れていくような気がする。

「さて、そこで問題です。明日は何の日でしょう?」
「え?土曜日」
「………」
「祭日じゃないよね?」
「……

朱夏が本気で額を押さえてじろりとを睨んだ。
なまじ美人なだけに、それは迫力があった。
もっともには通用しないのだが。

「何?」
「この話の流れで、何となくわかんないかなー普通。正レギュのチョタがここ最近ずっと部活が忙しそうなのは、当然のことながら理由があるのよ。練習する理由がね」
「もしかして…」

おそるおそるという感じで「試合とか…?」と聞いてきたに、朱夏は大きく頷いた。
まったく、鈍いにも程がある。
他人の感情や窮地には驚くほど聡いくせに、どうして周囲の出来事や自分のことにはここまで鈍いのか。
付き合いは長いが、このぽやぽや〜んとしたペースには時々ついていけない。

(まあ、それが可愛いんだけどね)

「そう、その『もしかして』なの。明日テニス部の練習試合があるの。久々に正レギュラー全員が試合するっていう話だから、皆も気になるんでしょ」
「なるほど」
「都大会も近いし正レギュラーも腕ならしって意味らしいけど、うちの正レギュラーが試合すること自体珍しいからね。跡部様ファンクラブも浮かれるのは無理ないでしょ」

朱夏は教室の隅で楽しそうに話し合っている女子にちらりと視線を向けた。
それにつられるようにも視線を向ける。
氷帝テニス部の正レギュラーといえば、200人を超える部員の中でも圧倒的な実力を誇る7人で、容姿端麗(一部を除いて)・成績優秀(これまた一部を除いて)で氷帝のみならず他校の女子生徒からも人気が高い。
は正レギュラー全員を知っているわけではないが、同じクラスの鳳がテニス部正レギュラーという縁があってか、まったく知らない間柄ではない。

「どうして教えてくれなかったんだろ」

長太郎とは仲がいいと思っていたので、彼がに練習試合のことを話してくれなかったことが気になる。
試合のある日は前もって教えてくれた。
生憎用事があって応援には行けることは少なかったが、それでも都合がつけば毎回でも差し入れを持って応援に行くつもりはあるのだ。

「いつもは教えてくれるのに…」
「まあ、チョタも随分忙しそうだからね。それには今週は家の用事で放課後になるとすぐに帰ってたじゃない。案外そんなに気を遣ったのかもよ。あぁ見えてチョタってば気配り上手だし」
「う〜ん」

それはそれで、何だか面白くない。

「気になるんなら、チョタにメールしてみたら?アドレス知ってるんでしょ」
「知ってるけど…」
「じゃあ、どこで試合するか聞けばいいじゃない。応援行くつもりなんでしょ」
「うん。明日は用事ないし、お弁当作っていこうかな。朱夏ちゃんはどうする?一緒に行く?」
「あたしはやあよ。チョタのテニスも正レギュのテニスも興味ないもん。の差し入れお弁当にはそそられるけど、生憎バイトなのよね」
「そっか、じゃあ朱夏ちゃんの分も応援しておくね」
「よろしく」

と朱夏はにっこりと微笑みあった。
その会話をすべて聞いていた人物が廊下でガッツポーズをしていたことに、は気付かなかった。
そして、朱夏が背中越しに廊下の人物にVサインを送ったのも、当然気付かなかったのだ。



バイトがあるという朱夏と別れて、はテニスコートへと向かった。
メールで訊ねてもよかったのだが、思い立ったが吉日とばかりに直接本人に訊ねにきたのだ。

「善は急げって言うもんね」

クラスの女子に聞けばすむのではないかと突っ込む人は、残念ながらこの場にはいない。
本来なら親友の朱夏が言うべき言葉なのだが、今回彼女の口からその言葉が発せられることはなかった。
勿論意図してのことなのだが、がそのことに気付く様子はまったくない。
鞄を胸に抱え歩いていると、部室棟の方から自分の方に向かって走ってくる人の姿を発見した。
男にしては長い艶やかな髪が風になびいている。
よりも長いであろう背の中ほどまである黒髪は、不思議と脆弱さを感じさせず彼に似合っていた。
彼がに気付いて足を止めると、はぺこりと会釈した。

「こんにちは、宍戸先輩」
「…おう」

以前の荷物を運んでくれたのがきっかけで、宍戸とは最近よく話す機会がある。
話してみて分かったことなのだが、宍戸は一見きつそうに見える外見とは裏腹に、とても誠実で面倒見のよい人物だった。

「あのさ…」
「はい?」
「明日…、その……ヒマか?」
「ヒマです、けど…」
「長太郎から聞いてると思うんだが…」
「ひょっとして練習試合のことですか?」
「…あぁ…」
「鳳君からは聞いてないですけど、練習試合があるのはさっき知りましたよ」
「聞いてない…?」

不思議そうな顔をする宍戸に、は少し頬をふくらませる。

「ひどいと思いませんか。いくら忙しいからって、鳳君ってば明日練習試合があることも教えてくれなかったんですよ。応援に行きたくても、場所がわからなくちゃ行けないじゃないですか。ねぇ?」
「お…おぅ…」
「でも、ここで宍戸先輩に会えたからよかったです」

は宍戸を見上げ、にっこりと笑う。
不意打ちの笑顔に、一瞬宍戸が固まった。

「明日応援に行ってもいいですか?勿論差し入れ持っていきますよ」
「あ…あぁ…。むしろこっちが…」
「こっちが?」
「あ…いや」

そう言って、宍戸は言いよどむ。
まずいことを言ったといわんばかりに視線をそらす宍戸に、は首をかしげる。

「実は…お前に頼みたいことがあってさ…」
「私に?何ですか?」
「明日の練習試合、マネージャーをやってもらえないかと思ってさ」
「マネージャー、ですか…」
「いや、実際の仕事はないんだが…。今まで正レギュのマネは準レギュの奴らが代行してたんだが、今回はあいつらにも試合を経験させてやろうと思ってさ。もうすぐ都大会もあることだし。だが、そうすると俺らのことに関わってる時間はないから…」
「そうですか…」

申し訳なさそうに視線を落とす宍戸を見て、は困ったように瞳を曇らせた。
運動部のマネージャーという仕事が大変なのは知っているつもりだ。
特にテニス部は部員も多いし、マネージャーがいなければ成り立つのも難しいだろう。
今までは自分のことは自分でという方針でやってきたのかもしれないが、どうやら大会が近くなるにつれてそうも言っていられないのだろう。
特に都大会は準レギュラーから出場選手が決められる。
代行とはいえマネージャー業務をやりながらでは、練習に集中できないのだろう。

「何で私なんですか?」
「俺らが知ってる女子で気が利くのって、お前しかいないんだよ」
「私、マネージャーやったことないですよ?」
「わかってる。細かいことはしなくてもいいんだ。ただ、ドリンクとタオルの準備だけしてくれたらいい」
「…今回だけ…ですか?」
「あぁ。…駄目か?」

無理を言っている自覚があるのだろう。
バツが悪そうに頭をかきながら、自分よりも10センチ以上低いを前に言いよどんでいる宍戸に、は少し逡巡した挙句小さく頷いた。

仕方ない。
どうせ応援に行くつもりだったのだし、差し入れもするつもりだったのだから、それ以外に少しやることが増えるくらい大差はないだろう。

「私で力になれるのでしたら…」
「本当か!?」
「宍戸先輩にはお世話になってますし」
「助かる!」
「でも、今回だけですよ?」

が宍戸の顔を覗きこんでそう告げると、宍戸は苦笑した。
その言葉について、宍戸はあえて返事を濁した。


試合の時間と場所を告げると、は笑顔で帰っていった。
おそらく彼女の頭の中には、明日の差し入れのことでいっぱいなのだろう。
メニューを指折り数えながら去っていく足取りはひどく軽い。
差し入れをしてもらえることは嬉しいが、もしかしたら作る本人が一番喜んでいるのかもしれない。
自分ならば正レギュ全員の差し入れを作ると考えるだけでうんざりするが、それを楽しいと思えるあたりの料理好きは相当なものだ。
姿が見えなくなってようやく背後を振り返ると、そこには一癖も二癖もありそうな笑顔を浮かべた正レギュラーの面々がいた。

「どや?」
「了解してくれたぜ」
「おぉ!さすが宍戸!」
「だが、今回だけだとよ」
「大丈夫。根回しは完璧だぜ」
「何せ、強力な助っ人がおるんやから」

宍戸はふと気になっての去っていった方向へ視線を移した。
自分を見つめていたの視線が、妙に気になった。
何かを感づいていたのだろうか。
正レギュラーがをマネージャーにしようと画策していることなど何も知らないはずなのに、はしっかりと念を押していた。
宍戸の瞳をじっと見つめるの瞳がまるで何かを読み取ろうとしているように思えたのは、自分の中にやましさがあるからなのだろうか。
長太郎の言葉が思い出される。

『彼女にじっと見られると焦りますよ。何ていうか…心の中を見透かされる感じ…とでもいうんですかね。結構怖いです。何でも暴かれそうで』

以前長太郎がそう言ったことがある。
その時は信じられなかった。
何しろ宍戸の中のというイメージは、おっとりしていてすぐに転ぶ、目の離せない小さな子供というイメージだったのだ。
だが、今は信じられる。
あの瞳は確かに怖い。
真実を見抜く瞳とでも言うのだろうか、確かに何もかも見透かされるような感じがした。
それを不快には思わなかったが。

彼女がマネージャーになるのは反対ではない。
むしろ彼女がマネージャーになれば、この曲者揃いの正レギュラーも少しは大人しくなるかもしれない。
問題は引き受けてくれるかということ。

「さて、どうなることか…」

宍戸は小さく呟いた。
その時まで、あと1日。


  • 05.10.14