午後の授業が開始を告げるまで、あと数分。
特別に昼休みに調理実習室を使用させてもらっていたは、目的の品を完成させたはいいものの思ったよりも時間がかかってしまい、大慌てで実習室に施錠をして教室へと歩いた。
走った方が早いのはわかりきっているが、は敢えてそうしなかった。
それは「廊下を走らない」という当たり前の校則を守ってというよりも、親友と級友から「は走ると転ぶから、絶対に走らないように」と厳命されているからなのだ。
いくら何でもそこまでドジじゃないと反論してはみたが、相手は自分よりも一枚も二枚も上手な親友である。
「あのね、が大丈夫って言ったことで大丈夫だったためしはないの。廊下を走って転んだ、もしくは転びそうになってチョタに助けてもらったのは、今月で何回?」
と目の前に人差し指をびしりと突きつけられてしまっては、も返す言葉がない。
それに、とは手の中の紙袋をちらりと見る。
その中には先程完成したばかりの品がいくつか入っている。
万が一転んでせっかく作った物が崩れてしまっては勿体無い。
自分が人より少し運動神経が鈍いということは自覚しているのだ。
実はの運動神経は少しどころじゃなく鈍いのだが、さすがにそこまで自覚していない。
とりあえず親友の言葉に反して廊下を走ってもし怪我でもしようものなら、それこそ一言の反論も許されないほどの説教をされることがわかっているので、腕時計をちらちらと見ながら廊下を歩いていた。
廊下から見える校庭には、さすがに人の姿は見えない。
「あと10分弱か…間に合うかな…」
始業時間まであと8分。
ここから教室まではあと2〜3分もあれば着くが、次の授業は移動教室である。一度教室に戻って持っている荷物を置き、テキストを持って再び特別教室棟まで来なければいけないのだ。
単純に考えても5分以上かかる。
それに、とは思う。
もしかしたら朱夏が教室で待っているかもしれない。
自分が遅刻するだけならまだしも、朱夏まで巻き添えにすることはできない。
はできるだけの早足で、廊下を急いだ。
ふと。
視界に入った光景に違和感を感じてはすぐに足を止めた。
窓の外に人の姿を発見したのだ。
その姿は木の枝のせいでよく見えない。
窓から身を乗り出して見ると、確かに氷帝の制服を着た少年が木陰にうつぶせている。
予鈴が鳴っているのにも関わらず、その少年はぴくりとも動かない。
もしかしたら具合が悪くて倒れているのかもしれない。
「大変!!」
その時のには、自分が遅刻をしそうだということはすっかり頭から消えていた。
とにかく目の前の少年を保健室に運ばなければ。
それしか頭になかった。
ここが1階でよかったと内心で呟きながら、室内履きだということも忘れては校庭に駆け出した。
「確かこの辺りだったと思ったんだけど…」
きょろきょろと周囲を見回しながら、は校庭を歩いている。
「えっと、あの窓から見えたんだから、多分こっち…あ、いた」
低木の先にある木の陰に、先程の少年がそのままの姿勢で倒れていた。
一見しただけでは外傷は見えないが、やはり先程と同じ姿勢で動いた気配はない。
「大丈夫ですか…?」
そろりと近づいて声をかけてみるものの、やはり反応はない。
「どうしよう…保健室…それとも救急車?」
とりあえず頭を打っていたらあまり動かさない方がいいだろうと思って、はその肩を軽く叩いてみた。
「あ、あの…」
再び声をかけると、少年の身体がぴくりと動いた。
「う〜ん…」
鈍い動作で身体を反転させると、少年はうっすらと目を開いた。
「だ、大丈夫ですか?」
「………朝?」
「い、いえ…もう午後です」
何とも間抜けな反応を返したを、彼はぼんやりとした目で見上げる。
どことなく幼さの残る顔は、意識がはっきりしているのかいないのか無表情だ。
「どこか具合でも悪いのですか?」
「ん〜〜、寝てた…」
上体を起こして、少年はぽりぽりと頭をかいた。
「ここ、陽当たりがすっげーよくってさ。気がついたら寝てた」
「は、はあ…」
一体いつから寝ていたのだろうと思ったが、とりあえず救急車も保健室も必要なさそうで少し安心した。
「でも、まだ春先で寒いですから、ここで寝てたら風邪ひいちゃいますよ?」
「ん〜、そうだね。ありがと〜〜」
「いいえ。では、私はこれで」
そう言ってが立ち上がろうとすると。
ぐ〜〜〜っ
何とも呑気な音が響いた。
「え?」
が首を傾げると、少年が自分のお腹を押さえてへへっと笑った。
「お腹すいた」
そういえば朝も食べてなかったと呟く少年に、は小さく笑って紙袋から小さな包みを取り出した。
「こんなものしかありませんが、よろしかったらどうぞ」
風に乗ってふんわりと甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
「いい匂い」
「マフィンなんです。他にチョコチップとバナナとブルーベリー味とありますけど、どれがいいですか?」
「…いいの?」
自分を見上げるその姿が子犬みたいで、はにっこりと微笑んだ。
「お昼休みに作ったんです。沢山ありますから気にしないでください」
本当は友達に配るために作ったのだが、1つや2つなくなったところで困ることはない。
いつもの癖で多めに作っていたのが幸いした。
「何でもい〜よ。俺甘いもの大好きだC〜」
「お腹が空いてるなら、バナナの方がいいですかね。あとチョコチップもどうぞ」
「ありがと〜〜!」
が少年の手に小さな包みを3つほど渡すと、少年は嬉しそうに笑った。
「うわっ!おいC〜!!」
「ふふ、ありがとうございます」
もの凄い勢いで食べていく姿を見て、は微笑む。
自分が作ったものを美味しいと食べてくれる姿を見るのはすごく嬉しい。
3つあったマフィンは、あっという間に少年の胃袋に納められた。
「ありがと、えっと…」
「です。2年の」
「ちゃんね。俺、ジローっていうんだ。一応3年ね。すっげーおいしかった。ごちそうさま!!」
「どういたしまして」
にっこりと微笑みあう2人は、自分達の状況にまったく気付いていなかった。
それに気付いたのは、始業のチャイムが鳴ってからだった。
「あっ!!」
大事なことをすっかりと忘れていたことに、今更ながら気付いた。
慌てて時計を見ると、午後の授業が開始する時間だった。
「きゃ〜!遅刻!!」
「サボっちゃえば?」
けろりとそう告げるジローに、はとんでもないという風に首を振った。
「そういうわけにもいきません!では、失礼します…きゃあっ!!」
わたわたと立ち上がり踵を返して走り出そうとして、は足元の木の根に見事につまづいてしまった。
受け身という言葉は知らないとでもいうような豪快な転び方に、さすがのジローも顔色を変える。
「ちゃん、大丈夫?」
「いたた…、大丈夫です」
はそう答えたが、あまり大丈夫じゃないようにジローには見える。
転んだ先には小さな植込みがあって、はその中に見事に顔からダイブしてしまったのだ。
起き上がろうともがいているところを、ジローが腕をひっぱって起こしてくれた。
「転ぶから走るなって言われてたのを忘れてました」
相当頻繁に転んでいるのだろう。誰が言ったか知らないが、ジローもその言葉に賛成だった。
植え込みからようやく脱出できたは、制服についた葉や砂を払ってジローにぺこりと頭を下げた。
「すみません、お手数をおかけしました。それじゃ失礼します」
「ちょっと待って」
「え?」
「足」
そう言ってジローはの左足を指さす。
「足首、捻ったでしょ」
「え……」
何でもないようにしているが、助け起こした時がわずかに眉を顰めたのをジローは見逃さなかった。
どうやら転んだ拍子に足を捻ったのだろう。
「保健室、行こ?」
「えっと、でも…大したことありませんし…」
「ちゃん?」
「………はい」
じっと見つめられて、は反論を許されなかった。
また怒られる、と親友の顔を思い浮かべて肩を落とした。
「おや、また来たんだ」
ジローに背負われて保健室に来ると、妙齢の校医はを見て開口一番そう言った。
のんびりとコーヒーを飲みながら、優雅にティータイムをしている。
深くスリットの入ったミニスカートで優雅に足を組んでいる様は文句なく「綺麗なお姉さんは好きですか?」という外見なのだが、如何せんこの校医の性格は『お姉さん』というより『姐御』という感じなので、その麗しい外見にも関わらず女性らしさはあまり感じられない。
そのせいか男女問わず人気が高いのだが、怒らせるととんでもなく怖いのは周知の事実だ。
「保健日誌は持ってきてあるよね。彼氏に背負われて登場ということは、どこか怪我でもしたとか?とりあえずとっとと入って扉を閉めてくれないかな。一応ばれたら大変なのよね」
目の前の置かれているのは、某有名ケーキ店のモンブラン。
銀座でも有名な店で、平日でも20分は並ばないと手に入れるのは困難だ。
通常勤務の校医がなぜ今それを食べているか、答えは簡単である。
「先生、また学校抜け出したんですか?」
が椅子に座りながら呆れたようにそう訊ねた。
この校医は多くの女性と同様に甘いものには目がない。
別にそれ自体は問題ないのだが、彼女はしばしば学校を抜け出して有名店の菓子を買いに出かけてしまうのだ。
時々留守番を言い渡されるは、当然ながらそのことを知っている。何度か注意したが一向に止める気がないので、最近ではすでに諦めている。
「この店を教えてくれたのは誰だったかな、さん。安心なさい。ちゃんと2人の分もあるから」
校医は悪びれもせずそう言った。
「わ〜い、ラッキー」
「そういう問題じゃないし、ジロー先輩は彼氏じゃありません。それに今は授業中ですよ先生」
「じゃあ2人は授業をサボって何してたの?」
「私が怪我をしたので、ジロー先輩は親切に連れてきてくれただけです」
「ほぉ〜、どうせ走ってて何かに躓いたんじゃないの」
「…ノーコメントです」
「図星か。そこの少年。今回は何に躓いたか知ってる?」
「木の根っこ」
「貴女ねえ、少しは学習なさい」
「……」
呆れたように校医がため息をついた。
この様子からして、やはりは頻繁に転んでるのだろう。
悔しそうに校医を睨むの姿に、ジローは苦笑を浮かべた。
「やっぱちゃんは走っちゃ駄目だと思うよ、うん」
「ジロー先輩〜」
が困ったようにジローを見る。
「だって、ちゃんが怪我ばっかりしてたら、俺ヤだもん」
「そういうこと。ほらとっとと見せて。足首?軽く捻っただけね。テーピングで十分でしょ。まったく国宝級にドジなんだから」
「…いつもお世話になります」
「ええもう、本当に。在室証明書を書いてあげるから、望月さんにしっかり怒られてきなさい」
「えぇ〜!!」
「君もついでに持っていきなさい。あまりサボらないように。芥川慈郎」
「あれ、先生俺のこと知ってんだ?」
「ジロー先輩、芥川って言うんですね」
「そう、頭良さそうだろ」
「いい名前ですよね」
へへっと笑ったジローにもにっこりと笑った。
「…あんたたち、案外似合いかもしれないよ」
のほほ〜んとした空気を醸し出す2人に、校医はそんなことを呟いた。
- 05.06.18