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癒しの人


仕事に関して一切の妥協を許さない生徒会書記が、部活動に向かう多忙な生徒会長を見つけたのが新館の廊下だった。

「すみません、ちょっと時間よろしいですか」

その場で跡部を呼びとめ、会議資料の草稿をいくつかチェックしてもらった。
本来なら決してそのようなことはしないのだが、何しろ会議は3日後に迫っていた。進行表はおろか議題すらろくにまとまっていない状況では、一分一秒が大切なのだ。
ましてや跡部は生徒会長という役職以外にテニス部部長という仕事もあり、自分よりも多忙な日々を過ごしている。
見つけた時に用件は済ませておかないと、時間が取れるかわからないのである。
渡された大学ノートに赤ペンでチェックを入れている跡部の背後に、何かが飛んでくるのが見えた。
ふと視線を向けると、自分たちに迫ってくる白い硬球。

「会長!後ろ!」

窓の外を指差し、そう叫んだときには遅かった。
跡部が振り返るよりも早く、大きな破裂音とともに跡部の背後のガラスが砕けた。
突然の出来事に、跡部は本能的に目元をガードした。
勢いのついたボールが窓ガラスを突き抜けて壁に当たり、何度かバウンドした後に廊下に転がる。
窓から少し離れていたお陰で直撃は免れたものの、至近距離で降り注ぐ破片からは逃れられるはずはない。
左手に鋭い痛みが走った。
おそらく飛んできたガラスの破片が腕を傷つけたのだろう。
跡部は呆然と立ちすくむ書記に視線を移した。
咄嗟のことで何の身動きもできなかったのが功を奏したのだろうか、彼の周囲に細かい破片は散乱しているものの、彼自身に目立った怪我は見られない。

「お前は怪我してねえな」

念のため跡部がそう訊くと、彼はこくこくと頷いた。

「は、はい…。ですが、会長の腕が…」

震える指が跡部の左腕を指す。見ると、白いシャツは破れ血がにじんでいた。
跡部は忌々しそうに舌打ちをした。
すみません、と叫びながら駆け寄ってきたのは数名の野球部員。
大ホームランを追いかけてきた新入生らしき少年は、大きく割れた窓ガラスに驚いて足を止め、次いで廊下の向こうにいる跡部を見て顔色を変えた。

「会長…」

氷帝学園を牛耳っていると言っても過言ではないほどの権力を持っている生徒会長。
彼を怒らせたらただではすまないという噂がまことしやかに流れるほどには、跡部景吾という人物は一般生徒から一目も二目も置かれている。
持って生まれたカリスマ性とでもいうのだろうか、怜悧な瞳でひと睨みされるだけでほとんどの生徒はまともに話すことすらできなくなる。
唯一の救いは、彼が不条理な暴君ではないということだろうか。
だが、今の状態ではたとえ彼が菩薩と言われるほど慈悲深い人物であろうと、おそらく無事ではすまないだろう。
跡部は足元に転がる野球のボールを一瞥し、哀れにも固まってしまった野球部員へと視線を移した。
跡部の眉間に皺が寄る。

「随分といいコントロールだな…」

そのまま鋭い視線で野球部員を一瞥する。

「いつまでそんなとこで突っ立ってんだよ。とっとと片付けねえか!」
「は…っ、はい!!」

弾かれたように動き出す野球部員に冷ややかな視線を向けたまま、跡部は器用に片足でボールを蹴り上げる。
弧を描くボールの姿を目で追うこともなく容易に右手でキャッチすると、それを書記に放り投げる。
ぽたり、と赤い雫が床に散った。
それを見て跡部が舌打ちをする。

「業者に連絡して早急にガラスを交換してもらえ。代金は野球部に請求しろ。ついでに今度何か壊したら、来年の予算を半額にすると部長に伝えておけ」

そう言い捨てると、跡部は踵を返した。



保健室の扉を開けると、そこに校医の姿はなかった。
代わりにいたのは小柄な少女。
おそらく氷帝の生徒だろうが、何故か白衣に身を包んでいる。
サイズの合っていない白衣姿は似合っていないわけではない。むしろ怖いぐらいに似合っている。
突然開いたドアに驚いたのだろうか、きょとんとした表情でこちらを振り返る姿は小動物を思わせる。

「…校医は?」
「具合の悪い生徒を病院に連れていきましたよ。どうかしました…」

花のような笑顔を浮かべてそう答えた少女は、跡部の左腕に気付いて顔色を変えた。慌てて椅子から立ち上がって駆け寄ってきた。

「どうしたんですか、その傷…」
「ガラスで切った。…いつ戻ってくる」
「多分遅くなりますよ。それよりも早く手当てしないと…」

そう言いながら傷口を少しでも心臓より上にしようとして、跡部の腕を持ち上げる。
別に動脈を切ったわけでもないし、すでに出血は治まっているのだから必要がないのではないかと思ったが、必死な様子の彼女を制止するのは躊躇われた。

「あまり傷は深くないみたいですね」
「お前は…」
「2−Aの保健委員のです。まず水道で傷口を洗ってください。えっと消毒とガーゼを用意して…。…あ、その前に」

は跡部のシャツの袖を引っ張った。

「すみませんけど、シャツ脱いでもらますか」
「あぁ?」
「あちこち破片がついてます。傷口洗ってる間に払っておきますから」

言われてみるとシャツの所々で小さな破片が光を反射している。
よく見なければ気付かないほどの小さなものだ。

「髪の毛にも少しついてるみたいですね。ガラスの破片でも被ったんですか?」
「…まあ、そんなところだ」
「とりあえず払っちゃいますね。目を閉じててください」

そう言ってはタオルで跡部の髪を優しく払う。
柔らかなタオルの感触と時折触れるの手のぬくもりが妙に心地よい。
跡部の髪から細かい破片を払うと、は跡部のシャツを窓の外でぱたぱたとはたいた。
そして戻ってくると跡部の傷口を水道で丁寧に洗浄する。

「痛くても我慢してくださいね。破片が残ってたら大変なんですから」

傷口をしつこいくらいに洗い流した後、は傷口をまじまじと見る。

「どうやら破片は残ってないみたいですね」

保健委員というのは嘘じゃないのだろう。薬品棚からいくつか瓶を取り出し、ラベルを確認してはトレイの上に乗せていく。その姿は手馴れている。
出血のわりに傷は深くなかったようだ。がほっとしたように表情を緩める。

「これなら消毒するだけで大丈夫みたいです。ちょっとしみると思いますけど我慢してくださいね」

てきぱきと消毒を済ませ傷口に包帯を巻いていくその対応は、かなり手馴れている。

「はい、終わりましたよ」

包帯をテープで止めて、はにっこりと微笑んだ。

「慣れてるな」

無駄のない的確な治療に跡部は感心したようにそう言うと、は片付けながら軽く首をかしげる。

「そうですか?年の近い従兄弟が怪我していたからですかね。よく手当てしましたから」

余った包帯をくるくると巻きながら、はそう答えた。
てきぱきと道具を棚に戻していく姿は好感が持てる。

「それより、これどうしましょう」

そう言っては跡部のシャツを見せる。その袖は15センチほどさっくりと切れている。

「血の染みは落ちると思うんですけど、破れちゃってるし…。このまま着るのも何ですし、とりあえず繕っておきましょうか?」

破れた服は捨てればすむのだが、生憎着替えを持っていなかった。
部室にいけばテニスウェアもジャージもあるが、保健室から部室までは距離がある。保健室の中だけならまだしも、さすがに上半身裸で校庭を歩く勇気はない。

「あぁ…そうだな。任せる」

跡部がそう言うと、はにっこりと頷いた。



「すぐに済みますから、それまでこれ着ててください」

そう言って跡部の肩にかけたのは、それまでが着ていた白衣だった。
には大きかった白衣も跡部には小さく、とても着ることはできそうにない。
肩に羽織ったまま、の作業を待つ。

「そう言えば、何で白衣を着てるんだ」

校医の代理だとは言っても、白衣を着る必要はないのではないだろうか。

「先生に着せられたんです。代理だからって…。どうも先生は私で遊ぶの好きみたいで…」

少し恥ずかしそうには答えた。
跡部は小さくため息をついた。
生徒で遊ぶ校医にも問題あるが、言われるまま着てるだ。
断ることくらいできるだろうに。
跡部が何を考えているかわかったのだろうか、の手がぴたりと止まる。

「呆れてます?」
「…まあな」

正直に答えると、の頬がふくらんだ。
上目遣いでじろりと睨まれたが、まったく迫力がない。
むしろ大きな瞳でじっと見つめる姿は小動物のようで、何となく頭を撫でたくなってしまう。
まったく功を奏していないとわかったは、諦めたようにため息をついた。
視線を落として作業を再開する。

「私ってからかいやすいんですかね」
「そうだろうな」
「…こういう時って、お世辞でもそんなことないよとか言いません?」
「俺は嘘はつかない主義なんだ」
「いじわる…。はい、できましたよ」

玉止めした糸をはさみで切って、はシャツを跡部に手渡した。
それは一見しただけでは破れたことなどわからないほど綺麗に繕われている。

「へぇ、上手いもんだな」
「裁縫は得意なんです」
「…お前、って言ったな」
「はい、そうですけど…?
「助かった、礼を言う…
「どういたしまして」

は嬉しそうにふわりと笑った。
屈託のないその笑顔は、思わず視線を奪われる。
跡部は思わずの髪をくしゃりとかき混ぜた。

「じゃあな」
「あ、跡部先輩」

保健室を出ようとした跡部の背中に、が声をかける。
何だ、という風に振り返った跡部に。

「最低でも3日間は部活禁止ですよ」

人差し指を立てて、はいたずらっぽく笑った。
跡部は一瞬眉をひそめたが、のその表情に口元に笑みを浮かべる。

「校医の言葉は聞かないと、か?」
「そういうことです」

今日は私が代理校医なんですからね。
そう言うに、跡部は軽く手をあげて応えた。



、か…」

簡単に人に流されそうで、その実自分というものをしっかり持っているような少女。
面白い奴だ、と跡部は心の中で呟いた。


  • 05.06.15