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甘い誘惑


彼女に出会ったのは、ほんの偶然。
すべてはそこから始まった。





「あれ?」

ランニングの途中、長太郎が何かに気づいたように足を止めた。

「どうした、長太郎?」

併走していた宍戸もつられて足を止め、長太郎の視線の先を追う。
そこには大きな荷物を抱えた少女が歩いていた。
彼女の持っている荷物は全部で3つ。
両腕に1つずつスーパーのビニール袋を提げ、両手で大きな紙袋を抱えている。
重量まではわからないが、ふらつきながら歩いていることを考えても、決して軽くはないのだろう。

「何やってるんだか」

少女の姿を見て、長太郎がわずかに眉を顰めた。
いつもと違う長太郎の様子に、宍戸が怪訝そうな顔を向けた。

「知り合いか?」

長太郎の様子からして、他人ということはないだろう。
顔すら見えないこの状態で、一目惚れしたとは考えにくい。
長太郎は頷いた。

「同じクラスなんです。さん。俺たちの学年では結構有名人なんですよ」
?」

聞き覚えのない名前だ。
もっとも同じ学年の女子の名前すらろくに覚えていない宍戸なので、知らないのも無理はない。
宍戸は再び少女へ視線を移した。
小柄な体格に不釣合いな程の荷物を抱えてよたよたと歩いている様は、見ていてひどく危なっかしい。

「あれじゃ転ぶんじゃないか」

そう言った矢先に、宍戸の懸念はあっさりと実現した。
2人の目の前でバランスを崩した少女は、何とか転ばないように体勢を整えようとしたが、紙袋からこぼれ落ちた林檎に気を取られて、そのままふらりと身体が傾いた。
小さな悲鳴とともに少女は転倒し、持っていた荷物が足元に散乱した。

「あぁ、もうっ!やっぱり!」

長太郎は呆れたようにそう呟くと、少女のもとへ走り寄った。
その言葉に、長太郎も自分と同じ懸念を抱いていたのだと納得し、彼の後を追った。



「痛い……」

は散乱した荷物の中にぺたりと座り込んだ。
目の前に広がるのは、紙袋から転がり落ちた数個の林檎と、破れた袋から落ちた品々。

「やっぱり1人で持つのは無謀だったかも…」

そう反省したところですでに遅い。
手伝うといってくれた友人の申し出を辞退してしまったため、自力で運ぶ以外に方法はなかった。
幸い、ここから目的地までは目と鼻の先である。
頑張れば何とかなる距離だと自分に言い聞かせる。

「よしっ、運びますか」

両手についた砂を払って立ち上がる。
いそいそと転がった林檎を元の袋に戻して、さあ持ち上げようと袋に手を伸ばしたとき、横から現れた大きな手がそれを奪っていた。

「あれ?」

顔を上げると、そこには呆れた様子の長太郎の姿があった。
長太郎は持ち上げた荷物の意外な重量に眉を寄せる。

「何度も言ってるけど、荷物持ちすぎ。どう考えたって1人で運べる量じゃないよこれ」

しかも荷物はこの紙袋だけではないのだ。
自分でさえ余裕とは言いかねる重さだ。
自分より30cm程小さい彼女が運ぶことは、どう考えたとしても無謀だ。

「持てると思ったの」
「その細腕で?」
「だって、思ったんだもの」

ぷくっと頬を膨らませて長太郎を見上げる少女の姿を見て、意外に負けず嫌いなのかもしれないと宍戸は思った。
そういう人間は嫌いじゃない。
だが…。

の足元にはスーパーの買い物袋が3つ置いてある。
その中には小麦粉や砂糖、バターなどが入っていた。
持ち上げると、こちらもずしりと重みを感じる。
よく見ると、1kgの砂糖と小麦粉が各3個入っている。
それだけでも6kgの計算になる。
小柄で、しかも腕なんて自分の半分程の太さしかないような華奢な少女がよくここまで運べたものだと、呆れるよりも感心してしまう。

「努力は認めるけどよ」

ため息と共に宍戸はそう言うと、の足元に荷物を取り上げた。

「運んでやるよ。どこに持っていくんだ?」
「え…?い、いいえ、いいです!重いですし、すぐですから!!」
「これ全部お前が運べるわけねえだろ。また転びたいのか?」
「そういうこと」

そう言って宍戸と長太郎は歩きだしてしまう。

「駄目です!そんな…!」

とてテニス部がどれだけ厳しいか噂で聞いたことがある。
ましてや2人は200人近い部員の中でも正レギュラーだ。
そんな2人に練習を中断させるわけにはいかない。

「じゃあこれ持って」

そう言って長太郎は紙袋から林檎を2個取り出しての手のひらに乗せた。
その瞳はすごく優しい。

「うぅ〜、鳳くんは私を甘やかし過ぎ」

上目遣いでじろりと睨まれて、長太郎は笑った。
本人は睨んでいるつもりだろうが、全然迫力はない。
むしろそうやって見上げてくる彼女がひどく可愛くて、長太郎は思わず彼女の頭を撫でた。

「…もうっ」

何を言っても無駄とわかっているので、は観念したように歩き出した。
しかし何度も手伝ってもらっている長太郎と違い、宍戸とは初対面の上先輩なのである。
このまま持たせておくわけにはいかない。
とてとてと宍戸の横に近寄る。

「少し持ちます」
「気にするな、筋トレになる」
「でも…」
「お前は前を見て歩け」

また転ばれてはたまらないと告げると、長太郎がその通りと笑った。
は頬を膨らませたが、結局荷物は譲ってもらえなかった。
コンパスの差から、は必然的に小走りになってしまう。
どう見ても運動が得意に見えないは、それほどの距離を歩いているわけではないのに、すでに息が切れてしまっている。
宍戸はそれに気付いて、歩く速度を落とした。

「調理室でいいんだよね」
「うん、ありがと」
「それにしてもすごい荷物だな。何作る気だ?」

長太郎の持つ荷物は大量の林檎。そして宍戸の持っている荷物はバターや小麦粉、砂糖の類となればおそらく洋菓子だという予想はつくが、これほどまで大量に必要になるのか不思議だった。

「林檎を沢山頂いたので、林檎づくしなんですよ。林檎のコンポートにケーキ、パウンドケーキ、タルト、アップルパイ、ムース、ジャム…」

が指を折りながら数える。
次々に口から出てくる品名に驚く。

「う〜ん、そのくらいですかね。あっ、スコーンも作りますよ」
「全部作る気かよ?」

呆れたような宍戸の声に、はにっこりと笑った。

「当然ですよ。せっかくの紅玉なんですから。勿体ないじゃないですか」

何が当然なのか2人にはわからなかったが、彼女がとても楽しそうなので、あえて突っ込もうとは思わなかった。

「あ、そうだ。何かリクエストありますか?」

が宍戸を見上げ、唐突にそう訊ねた。

「はあ?」
「運んでいただいたお礼に、差し入れします」
「いや…」
「俺アップルパイがいいな」
「うん。鳳君はアップルパイね。宍戸先輩は何がお好きですか?」

いらないと言おうとしたのだが、それより先に長太郎がそう言ってしまったために断るのも申し訳ないような気がする。
確かに部活の後は空腹になるし、甘いものは正直嫌いではない。
宍戸にとってこの申し出は有り難いことだ。

「ケーキって、どういうやつなんだ?」

宍戸の想像するケーキはパウンドケーキなのだが、どうやらそれとは別らしい。

「ホールのケーキなんですけど、林檎をまるごと1個入れて焼くんです。結構さっぱりしてるんですよ」
「じゃあ、それで」
「はい。部活が終わる頃持っていきますね」

楽しみにしててくださいね、と笑うは本当に嬉しそうで、宍戸もつられて笑顔になった。

調理室に入ると、そこには2、3人の女子生徒しかいなかった。
これだけ大量の材料を買い込んだにしては、人数が少ないような気がする。

「お待たせ」
、おっそーい!…って何で宍戸先輩に荷物持ちをさせてんのよー!!」

振り返るなり悲鳴を上げたのは、の親友・望月朱夏だ。

「途中で会って、持ってくれたの」

ぺろりと舌を出してそう言うを、朱夏はじろりと睨んだ。

「もうっ、だから手伝うって言ったのに…。すみません、宍戸先輩。チョタもありがとね」
「ついでみたいだな」

長太郎が苦笑すると、朱夏はにっこりと笑った。
とはまた違ったタイプの美人である朱夏は、華やかな雰囲気の持ち主だ。
笑うとさらに艶やかになる。
だが、その笑顔にはひと癖あることを長太郎は長い付き合いなので知っている。

「だってチョタはの保護者じゃん。いっつも手伝ってくれるし」
「何か目につくんだよね、さんって」
「そうそう、しかもすぐ転ぶし。放っておけないんだよね」
「…朱夏ちゃんも鳳君も意地悪」

何気なく時計を見て、結構な時間が経っていることに気づいた。
そろそろ戻らないと、また跡部がうるさいだろう。

「ほら戻るぞ、長太郎」
「あ…はい、宍戸さん。それじゃ」
「うん。本当にありがとね。出来上がったら持っていきますから、宍戸先輩も楽しみにしててくださいね」

満面の笑顔でそう言われ、宍戸は照れ隠しに小さく頷いた。



練習も終わりに差し掛かった頃、宍戸はコートの外をうろうろしている人物を見つけた。

「あいつ…」

先ほど会ったである。
小柄なのに、なぜか目を引く。
宍戸がに気づいたのがわかったのだろう。
がコートの向こうで小さく頭を下げた。
そして手に持っている大きなバスケットを宍戸に見せるように持ち上げて、小走りに近づいてくる。
直接話したのは今日が初めてで、彼女に会ってからまだ数時間しか経過していないが、運動神経が優れていると言えないということは、少し話しただけでも十分にわかった。
また転ばれてはたまらないので、宍戸は慌てて駆け寄った。
案の定、は器用にも足元の段差でバランスを崩した。
それはほんのわずかな段差で、むしろつまづくことの方が難しいと思えるほどだ。
宍戸は慌てて手を伸ばして、転びそうな彼女の身体を支えた。

「危ないところでした」
「頼むから足元を見て走ってくれ」

むしろ走るなと言いたかったが、それは何とかこらえた。
は苦笑した。

「はい、気をつけます。これ、差し入れです」
「あぁ…悪ぃ。…?」

そう言って差し出されたバスケットはピクニックに行くのか?と言わんばかりの大きさだった。
中を開けると、そこには大量の焼き菓子が入っていた。

「アップルパイとケーキだけじゃなかったのか?」
「えへへ、調子に乗って作りすぎちゃいまして。持って帰るのも限界がありますし、よかったらテニス部の皆さんで召し上がってください」

アップルパイに林檎のケーキ、ムース、ゼリー、プリンもある。放課後という限りのある時間の中、そしてあれからまだ二時間ほどしか経過していない。
驚くべき早さだ。

「私のお勧めは、これ。林檎のブリュレなんですよ」

陶器の器に入ったそれは、表面のグラニュー糖がこんがりと焦げていて食欲をそそる。

「…すごいな」
「皆の力作なんですよ。あ、きちんと味見してありますから味は保証します。変なものが入ってたり、砂糖と塩を間違って入れたとか、ありませんから安心してください」
「…何だそりゃ?」
「以前鳳君が貰った差し入れのクッキーが、砂糖と塩を間違えてたみたいで大変だったって聞いてたんです。手料理は貰うのが怖いって言ってましたから、もしかして宍戸先輩もそうなのかなと思いまして」
「あー、あれな…」

宍戸はその時の味を思い出して眉を顰めた。
の言葉通り、ファンクラブの子から随分前にクッキーを貰ったことがあった。見た目は綺麗に焼けていたのだが、塩入りのクッキーははっきり言ってものすごい味がした。
できればもう二度と食べたくなかった。
そのためギャラリーからの差し入れは一切受け取らないことになったのだ。

「あれはマジ勘弁してほしいな」

うんざりとした様子で宍戸が漏らすと、はくすくすと笑った。

「人気があるのも大変ですね。…あ、そろそろ戻らないと。片付けまだなんです。それじゃ、失礼しますね」

ぺこり、と頭を下げては走っていった。



宍戸は自分の持っている大きなバスケットへと視線を落とした。
焼きたての美味しそうな匂いに負けてアップルパイを一切れその場で食べてみる。
さくっとしたパイ生地の食感とクリームの甘さ、それと林檎の酸味がなんとも言えず美味しい。

「美味え…」

店で売っているものと、何ら遜色ないだろう。
むしろその辺の店よりもよっぽど美味しいのではないだろうか。
これを持って帰ったら、岳人やジローは飛びあがらんばかりに喜ぶだろうか。
そんなことを思いながら、宍戸は残りを口の中に放り込むと上機嫌で部室へと戻った。


  • 05.05.04