Sub menu


天才軍師と平凡少女


パチン、パチンと、小さな石が盤上に置かれる音だけが室内に響く。
白と黒。
19路盤の小さな台座の上、同じ数だけの石が置かれているはずなのに、盤上では見事なほどに白が優勢になっている。
手合いを始めてからそれほどの時間は経っていない。
つまり、それだけ実力の差があるということだ。

「むむむむむ…」

黒い石を片手に可愛らしい顔を顰めているのは、まだ10代の少女。
18歳という年齢よりもいくつか幼く見える少女は、普段はにこにこと無邪気な笑顔を絶やさないものだから、真剣というより不機嫌な表情というのは非常に珍しい。
以前から良く表情を変える少女ではあったけれど、盤を前にすると更に面白いほど表情が変化する。
大きな瞳は理知的な光が支配し、きゅっと引き結ばれた桜色の唇は凛々しさすら感じられる。
盤上にしか注がれていないその眼差しは、平時に見せたらはっと目を奪うほどの力強さを宿している。
だが残念ながらそれは今のところ盤上のみに注がれており、対戦相手ならば多少は目にすることができるものの、普段穏やかな彼女のその姿を見ることが出来る人物は極少数である。
そう、その目撃者は今のところ対戦相手である半兵衛しか見たことがない。

あまりにも一方的な勝負に多少可哀相と思わなくもないが、そもそも最初に勝負を持ちかけてきたのは少女からだ。
しかも、


『私が負けたら、半兵衛さんの言うこと何でも聞きますよ。まぁ、私に勝てたらですけどね』


などという挑発的な発言と共に。
勝ち誇った笑顔を浮かべる少女の挑戦を鮮やかな笑顔で受けたのは半兵衛で、そして今、の表情からどちらが有利な立場か推して知るべしということだ。

「さて、くん。君の番だよ」

に打つ手がないのはわかっている。
分かっていて尚そう急かしてみせれば、は眉をきゅっと寄せたまま悔しそうに半兵衛を睨んだ。

「……ありません」

敗北宣言を聞いて、半兵衛はにやりと笑った。
確かに彼女の囲碁の実力はなかなかのものだ。
多少齧った程度の腕前なら瞬殺だろうし、そこそこの腕でも返り討ちにされるだろう。
だが、が対戦相手に選んだのは半兵衛。
稀代の天才軍師を相手に頭脳戦で勝とうなどと百年早いのだ。

「悔しい〜! これでも私、向こうじゃ院生なのに。棋院の中じゃ負け知らずなのにぃ〜!!」

ゴロン、と行儀悪く畳に寝転んだ少女に、半兵衛はその行儀の悪さに咎めるような視線を向けるものの、敢えて咎めようとは思わなかった。
咎めたところで無意味だからだ。

『キイン』というのは半兵衛にとって知らない単語だが、会話の内容から恐らく囲碁を嗜む場所なのだろうと推測する。
こういう知らない言葉が出てくることは半兵衛にとって実に興味深い。

は半兵衛とは違う世界の住人であるらしい。
本人がそう言っていることもあるが、半兵衛自身がが光の中から転がり落ちてくるのを目撃している。
況してや持っていた荷物も着ていた服もこちらとは生地や縫製が違うために、否定するより認めてしまった方が簡単だったのだ。

何よりもこちらと常識が違うというと話をするのは楽しい。
教育方針も違うせいか、の知識量には時折半兵衛も驚かされるほどなのだ。

「しかも、まったく手加減してくれないし。じわじわと追い詰めてくるかと思いきや、逃げ道一つ残してくれないしさ」
「おや、手加減してほしかったのかい?」
「それは嫌。でも、もう少し接戦に持ち込めると思ってた自分に自己嫌悪。私なんてまだまだなんだなぁ」

半兵衛の手を抜こうか発言に大の字に寝転んでいたは、がばっと起き上がった。
相変わらず無駄に元気だ。
この年頃の少女ならもう少し落ち着きがあっても良いようなものだが、清楚な外見に見えて彼女の行動はじゃじゃ馬娘と呼ぶのが相応しいほど行動的だ。
一応の礼儀作法をわきまえているので、時と場合を使い分けているようだが。

「天才軍師に挑んだのが無謀だったのかなぁ。軍略ができたって囲碁が得意とは思わなかったのに」

は諦めとも後悔ともつかないため息をついた。
負けん気が強いのは嫌いではない。
従順なだけが取り柄の姫君なんて自分には必要ない。
豊臣の天下を築こうと奔走する自分に必要なのは、ただ癒すだけの女ではなく、同じものを見て同じ志を掲げる同士と命令通りに動く駒だ。
はそのどれでもない。
戦に疲れた身体を癒してくれるような女ではないし、戦場に立つわけでもない。
それでも決して不必要な存在ではなかった。
少なくとも半兵衛にとっては。

「では賭けの品を貰おうかな」

落ち込むのは気が済んだのだろう、碁盤を前に一人で検討に入っているにそう言えば、は苦笑しながらも頷いた。

「あぁ、あれね。何でもどうぞって言いたいけど、私が半兵衛さんにあげられるものなんてほとんどないんだよねぇ」

まさか負けると思わなくてと頭をかくの前に半兵衛は膝をついた。
おや、とが首を傾げる。
至近距離から見る半兵衛の顔は、やはり綺麗だ。
白い髪も紫の瞳も自分の世界では滅多にないものだけれど、不思議なことに半兵衛には良く似合っている。
美形って得だよなぁとか見当違いのことを考えているの手を、半兵衛がそっと取った。
囲碁に自信があると豪語するだけあって、の指先は碁を嗜む者の持つそれだ。
だが白くて細い指はどこまでも繊細で、形の良い爪の先まで手入れが行き届いている。

「半兵衛…さん?」

困惑するに半兵衛は微笑む。

「僕の言うことは何でも聞くと、そう言ったね」
「う、ん…」

きょとんとしながらも頷こうとしたは、ふと何かを思い出したように動きを止め、一瞬の後、顔を赤らめた。
わたわたと俯くの頬に手をかける。
飛んで火に入る夏の虫とは、まさにこういう状態のことを言うのだろう。
半兵衛はの白い額に口づける。
熟れた果実のように真っ赤になるの耳元で半兵衛は呟いた。

「いい加減、僕のものにおなり」


  • 11.05.30