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夢の名残 01


世の流れというものは時として避けられないものがある。
それはゆっくりと、だが確実に進んでいる時代という流れの中にあって、どうあっても逃れることのできない必然的な事象のようなもので、本人の本意かどうかということなど関係なく全てを巻き込み翻弄していく。
戦乱という世の中で、どうしても避けられないものと言えば権力争いだ。
下剋上という言葉が定着して百年余り、長年続いた覇権争いは天下人の出現により一旦は収まったかに見えた。
だがそれもほんの束の間。
人間の寿命などせいぜい50年。長くて80年と言ったところだろう。
それが尽きてしまえばどれほどの名君であろうと死が訪れる。
そうなれば再び世は戦乱へと戻されてしまうのだ。

『彼が亡くなる前に政権を盤石なものにしておけば』

悔しそうにそう呟いたのは、彼の天下人の頭脳として辣腕を奮っていた美しき青年だった。
彼の天下人の政権下で私心なく仕えていた人物――その名を石田治部少輔三成と呼んだ。
少年の頃に秀吉自ら引き抜いてきた青年は、幼い頃の恩義を忘れずに豊臣家に忠義を尽くしてきた。
時には影から支え、時には非難の矢面に立ち、己の身を削るかのような献身ぶりは正に忠義の鑑と呼べただろう。
そんな青年は時としてひどく脆く見えた。
高すぎる矜持からか他人に悟らせるような真似はしないが、青年の傍に仕える者の目には一目瞭然。
特に主君である秀吉を亡くしてからは傍目に見てもわかるほどに無理をしていて、元から細かった身体は無理をし過ぎたせいか更に細くなり、戦を直前に控えた頃には立っているのが不思議なほどの憔悴ぶりだった。

賢明な彼には豊臣の時代が終焉を迎えていることに気付いていただろう。
それでも彼は時代の波に逆らおうとしていた。
豊臣の世が終わり徳川へと流れていくことが誰の目にも明らかだったというのに、青年はその頼りない身一つでその奔流を押し返そうとしていたのだ。
味方はいた。
だがそれ以上に敵が多く、結果として青年はその奔流に呑み込まれ命を落とした。
あまりにも潔く、そして哀れな最期だった。

あれから数年。
時代は徳川へと移り、戦国の世は終結したと言われている。
人の力ではどうしようもないものに抗い続けた青年は、今の世を見ていたらどう感じただろうか。

「浪花のことも夢のまた夢、ねぇ…」

己の人生を夢と言いその一生を終えた天下人――豊臣秀吉。
その辞世の句を聞いた時の青年の顔が忘れられない。
そんな彼の夢に付き合い、そして彼の死後も身命を賭して働いた青年はそれで満足だったのだろうかと。
問いただしてみたかったが、おそらく青年の答えは決まっているような気がした。

秀吉様のために、豊臣家のために。
そんな言葉が口癖だった青年が、己の人生に不満を持つことなどないだろう。
良くも悪くも潔い人物だったのだ。石田三成という人物は。

だが…。



「俺は不満ばっかりですよ…殿」



大きな笠で顔を隠した男は、忌々しいほどに晴れ渡る空を見上げてそう呟いた。







   ◇◆◇   ◇◆◇







心地よい風が木々の枝を揺らし、収穫間近の稲穂がさやさやと音を奏でている。
どうやら今年は豊作になりそうだと、伊佐は馬上から黄金色の地面を満足そうに眺めた。
ここ数年は戦のせいで人手が足りず収穫も満足とは言えなかった。
だが、今年は戦もなく村人のほとんどが農業に専念できたために田畑にも手をかけることができたため、眼下には見事なまでに豊かな実りをつけた稲の景色が広がっていた。

「今年は豊作ですね」

伊佐の隣で現八が嬉しそうに言う。
現八は伊佐の家の下男だ。
目端が利いてそこそこ腕が立つということで、伊佐が外出する際には護衛と称して必ず供についてくる。

「そうだな。これなら年貢を納めてもまだ余裕ができるだろう」

おそらく、というよりは間違いなく余るだろう。
今年は村民の誰もが飢えずにすむということは嬉しいことだ。
過剰の米を領主に買い取ってもらうことも考えたが、それよりは村人の備蓄米として保管しておく方が良いかもしれない。
去年代わったばかりの領主の評判はあまり良くないため、村人の命を繋ぐ米を預けることに躊躇してしまうのだ。
それは伊佐だけの意見ではなく、この村の住人ならばほとんどの者が反対するのではないだろうか。
事実伊佐が備蓄米のことを口にすれば、現八の表情があからさまに曇る。

「若様が長老に提言なさるのは自由ですがね、俺は領主様に預けるのは反対です」

現八は誰もが人好きするような明るい青年だ。
それこそ無愛想な自分よりもよほど人当たりは良い。
伊佐は現八が誰かの悪口を言うのを聞いたことがない。それほどに温厚な人物なのだ。
それなのに現領主の話になると、現八は普段の温厚さをどこに忘れてきたのかというほど辛辣になる。
それほど暴君だろうかと考えるが、残念ながら答えは出てこなかった。
何しろ伊佐は新しい領主を全く知らないのだ。

先年の戦で勝利して天下人となった家康の腹心だという話だが、彼が新領主として赴任してきた時、伊佐は生命の危機に瀕していて家から出ることはおろか、布団から身を起こすことすら不可能だったのだ。
ようやく床を出ることが許されたのが三月ほど前で、家を出ることを許されたのは、本当につい先日のことである。
眼下に広がる豊穣の光景を見るのも、実は今日が初めてなのだ。
なにしろ病で体力をごっそりと奪われてしまっていたために、起き上がれるようになるまでに予想以上の時間がかかった。
しかも一度大病を患ったせいかその後もちょっとした気温の変化で体調を崩すことは珍しくなく、日々の食事とて子供のそれよりも少ない量しか平らげることができなくなっていたのだ。
本人は動けば治ると思っていたのだが、予想以上に過保護な家族により家から一歩も出ることができない生活を送っていた伊佐は、その後も何度か城下に下りてきたことがあるという領主の顔を結局一度も見ることができなかった。
もう立派な成人であり嫁を娶っていても可笑しくない年齢だというのに、何故この家族はそこまで心配するのかと不思議で仕方ないのだが、どうやら伊佐は昔から病弱だったらしいので心配しない方が無理とのことというのが家族の言い分である。

らしい、というのは伊佐自身が覚えていないからだ。

伊佐は先年罹った病によって記憶のほとんどを失ってしまっていた。
覚えているのは日常の生活と文字の読み書きができるということくらいで、家族の顔は勿論、自分の名前すら憶えていなかった。
そのためか時々「伊佐」と呼ばれることにひどく違和感を感じてしまうことがある。
これは本当に自分の名前なのかと、どうしても馴染めないのだ。
だが、過保護な家族に言うことはできない。
伊佐が「伊佐」であることを認めないということは、即ち伊佐を大事に思ってくれている家族すら否定することになる。
優しい祖父や両親、そして口うるさいけれど心配性な姪に余計な心痛を味わわせたくはなかった。

「領主が信頼できるかどうか見極められれば良いのだが」
「あー。多分、無理だと思いますよ。長老は今の領主様のこと、好きじゃないみたいですからね」

勿論俺もですがと続けてくるあたり、現八の領主嫌いは相当らしい。
この村の民は何かあると前領主のことを口にする。

『あの方は良かった』
『戦があっても無理な取り立てをなさらなかった』
『それどころか不作の年は免税だってしてくれたのだ』
『困っていればいつだって身一つでやってきてくれた』
『あのように素晴らしい領主様は他にいないだろう』

そんな話を耳にすれば、決まってその後には「でも今の領主様は…」と続く。
前領主の影が大きければ大きいほど、今の領主にとって治めにくい場所だろうと思う。
何となく現領主が哀れになるが、見たこともない領主よりは親しいこの村の民の方に気持ちが傾くのは当然であるため、知らず伊佐も現領主には否定的な感情を抱いてしまうのは仕方ない。
どちらが信用できるか、天秤にかけるまでもないのだから。

「では、じじ様には備蓄米はうちで保管するように伝えるとしよう。うちの米蔵ならわざわざ警備を増やすこともないし、広さだけは無駄にあるからそれなりの量を備蓄できるだろう」
「それがいいですね」

伊佐がそう言えば現八は嬉しそうに笑った。
現八は伊佐の言葉に絶大な信頼を置いているようで、伊佐の提案に異を唱えたことはない。
伊佐の提案はいついかなる時でも絶対に正しいのだという自信があるらしい。
そんな現八の信頼は少々面映いのだが、信頼されて嬉しくないはずがない。
つられたように僅かに笑みを浮かべた伊佐は、だがすぐに吹き付けた風の冷たさに小さく身震いした。
まだそれなりに温かいとは言え、陽が翳れば気温の冷たさはそれなりのものだ。
況してやぞくりと背筋を走る悪寒はここ1年で随分と慣れてしまったもの。
少し冷えてしまった身体を温めるように己の腕をさすれば、現八がそれを見咎めて慌てて外套を羽織らせた。

「やはりまだ外に出るのは早かったみたいですね。もう戻りましょう」

伊佐の顔色が先程より青くなっているのを見て、現八が手綱を奪い帰路へと進ませた。

「つまらぬな…」

ようやく外の空気を吸えたかと思ったのに、思った以上に長居できないのは楽しくない。

「ですが、これでまた体調を崩されたら、今度は千鳥お嬢様がどんな雷を落としてくるかわかりませんよ」
「まったく、女というのはどうしてああも口うるさいのか」

可愛がっている姪の名前を出されて伊佐はため息をついた。
伊佐より10歳以上も年の離れている姪は、まだ少女だというのに伊佐の保護者を公言して憚らない。
年の割にしっかりしているし実際頼りになるのだが、あの小言の多さだけはどうしても辟易してしまう。
伊佐とて口は達者な方だという自覚があるが、どうしてだろうか千鳥に対してだけは過剰に回る弁舌も意味をなさないものとなってしまうのだ。
しかも文句を言えば倍以上になって返ってくるのだから厄介なことこの上ない。
勿論それが伊佐の体調を心配してのことだということは、伊佐自身も嫌というほど良くわかっているのだが。

「さて、お嬢様に叱られないように早く帰るとしますか」

現八の声に応えるように馬が一声嘶いた。
そうしてなるべく早く家路へと戻ってきたのだがほんの少しだけ遅かったようで、家の門前に少女の姿が仁王立ちしている姿を見て顔を見合わせてため息をついたのである。

  • 12.02.15