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陽炎の人


慶長5年9月15日。
豊臣の天下を護らんとする毛利輝元率いる西軍と、新たな覇者となるべく天下を狙う徳川家康率いる東軍の、まさしく天下を2つに分けた戦は、かつてないほどの規模でありながら僅か1日で決着がついた。
数でも陣地でも圧倒的な有利を見せたはずの豊臣軍ではあったが、実際に戦端が開けてしまえば悲しいほどに統率が取れておらず、一部の武将が奮戦を見せるものの結果は西軍の大惨敗。
豊臣の恩顧を受けていた武将が悉く徳川に加担したとか、総大将である毛利輝元が戦場へ赴かなかったとか、重要な局面を担うべき島津が傍観者を決め込んだとか、豊臣にとっては嬉しくない現実が重なった結果であった。
多くの武将が戦死或いは投降をする中、最期まで奮戦し東軍を苦しめた武将も中にはいた。
その中の1人が石田三成である。
天下人である秀吉が寵愛した頭脳と忠義をこれでもかと見せつけた三成は、圧倒的不利の中でも最後まで勝負を捨てずにいた。
仲間を失い友と別れ、それでも主君への忠義を貫く為になりふり構わず生き延びようとし、そうして捕らえられたのは敗戦から6日後のことだった。
縄をかけられ敗戦の将として引き回され、まるで見世物のように城門前に曝されていた時も、彼は常に毅然と前を見据えていた。
元々線の細い優男であった三成は数日間の逃亡生活で更に病みやつれた様子を見せていたが、それでも周囲からの好奇の視線や侮蔑の言葉など一切を気にかけることなく、冴え冴えとした光を湛えた視線は秀吉の傍らに控えていた頃と何一つ変わらなかった。
捕縛されたみじめな男を一目見ようと、豊臣から徳川へと主君を変えた武将が多く姿を見せた。
だが、揺るぎない信念を持ち続ける三成と比べて彼らの何と醜いことか。
家を護る家臣を護ると言いながらあっさりと忠義を捨てた彼らは、三成の姿を見るなり口を揃えて悪しざまに罵った。

『これが太閤殿寵愛の治部殿の成れの果てか』
『尻奉公でのし上がった者には戦は無理だったようだのう』
『徳川殿には得意の色仕掛けも通用しなかったようだ』

だがそんな下卑た揶揄も三成の耳には届かない。
むしろ冷ややかな視線と共に口に浮かんだ嘲笑を向けるだけだ。
三成は主君である秀吉に忠義を捧げたことを何一つ後悔していない。
彼こそが最高の主だったと断言できるし、彼のために奔走した自分を誇りこそすれ恥じるようなことは一切ないのだ。
三成を悪しざまに罵る男共は、今回の戦が終われば自分達がどうなるか想像もしていないだろう。
だからこそ今度は自分達の天下だなどと嘯けるのだと三成は思っている。
徳川が天下を取れば、俄か家臣など邪魔なだけだ。
利用できるものは利用する。必要でなくなれば捨てるだけ。
そのようなこともわからない男共の戯言など聞くだけ無駄だ。
どうせ彼らとて数年もすればいらぬ嫌疑をかけられて処分されるだけのこと。
その時にはせいぜい先に逝ってしまった仲間と笑ってやろうではないか。
戦を起こすと決めた時から死ぬ覚悟は疾うにできている。
今更何を恐れることがあろうか。
後は彼らに恥じない死にざまを見せるだけ。
それが、自分に残された最期の使命だと三成はわかっていた。







   ◇◆◇   ◇◆◇







『勿体ないのぅ』

そんな秀吉の声を、三成は今でも良く覚えている。
満点の星の下、天守閣から空を眺めた秀吉は誰に告げるでもなくそう呟いた。

あれは山崎の合戦が終わった直後のこと。
信長公亡き後の天下を決める大きな戦だった。
秀吉が敵対したのは明智光秀。
主君である信長を討ったと言われる武将だった。
中国からの大返しで戦に有利な陣を取ったものの、かの武神には地の利などというものは通用しなかった。
多くの兵を失った。
それと同時に秀吉は真実を手に入れた。
信長の死、光秀の謀叛。
それら全てを操った黒幕の存在。
そうして、信長の子を身籠っていた光秀の正体。
豊臣軍の中でもごく僅かしか知る者のない真実は、露呈すれば世の中を更なる混沌へと陥れることは必至だったため、真実を知る者の胸の内に秘められることになった。

女であった光秀がこのまま武士として生きていくことは不可能。
仮に真実を公表したところで同僚を謀っていた罪で光秀は裁かれるだろうし、生まれた子とも引き離されてしまうだろう。
そしてその子は本人が望もうが望むまいが権力争いへと巻き込まれていくことは容易に想像できた。

『どうしたもんかのう』

虚空に放たれた言葉は、だが、実は背後に控える三成へと問うている。
三成は答える言葉がない。

全てを闇に葬ってしまうことは簡単だ。
だが、それをするには秀吉は光秀のことを憎からず思っていたし、信長に対して忠誠も篤かった。

何よりも、最期の天女の末裔である光秀を殺すのは惜しい。

『天女を手に入れれば天下を手に入れる』と言われるほどの稀有な存在。
伝承でしか聞いたことのない天女が目の前に存在して、欲しくない男がいるだろうか。
況してやその性格も心根も良く知る相手だ。
その美貌に目が眩んだのも一度や二度ではない。
信長の後継者として名乗りを上げた秀吉が手に入れるには相応しい相手である。
無類の女好きである秀吉が絶世の美女を前に揺れていた。

主君の寵姫である光秀を手に入れて、生まれてくる遺児の後継者にでもなれば天下は簡単に秀吉の元へ転がってくる。
あの家康が信長の次に敬意を払っていたのが光秀である。
それが友愛であれ情愛であれ、彼が特別な想いを光秀に抱いていたのは周知の事実。
柴田勝家とて光秀の意見には一目置いていたところがあるし、彼女が自分の傍らにあれば間違いなく今後の戦は激減する。
上手くいけば誰の血も流すことなく事は収まるかもしれない。

だが――。

身重の身でありながら戦場へ現れた光秀の、あまりにも儚い姿を思い出せばどうしてもそれだけは言えなかった。
主君であり夫であり、最大の理解者である存在を失った光秀は、まるで迷子になった幼子のように見えた。
いつだって柔らかい表情で穏やかに微笑んでいた光秀の、あのように儚い姿を見たのは初めてだった。
小姓として城に上がるようになってからの付き合いだから正直それほど長くないし、そもそもそんなに親しくしていたわけでもない。
秀吉と光秀が共に信長の重臣だったために幾度か顔を見る機会があっただけなのだが、それでも顔を合わせれば会釈をし、他の小姓に絡まれていればさりげなく救いの手を差し伸べてくれたりと、他の武将に比べれば交流は多かった。
特に三成にとって光秀は恩人とも呼べる相手であり、だからこそ秀吉が望む言葉はどうしても口にできなかったのだ。

『儂としてはこのまま城に残ってもらいたいんじゃがのう』
『…多分、あの方ならば秀吉様の御提案を無下にはなさらないかと思います』

嘘ではない。
人の厚意を無視できない光秀ならば、秀吉がどのような提案を出したとて最終的には受諾するだろう。
その内心がどうであれ、生きていくためなのだから。
「生きろ」という信長の遺命に背くことは、彼女にはできないだろう。
だからこそ、秀吉は躊躇っている。
この城に残るということは秀吉の側妾になるのと同義。
秀吉の女好きは有名。
いくら光秀が信長に貞節を誓おうと信じる者はいないだろうし、秀吉自身が手の届く場所にいる光秀を放っておくわけがない。
三成は主君に忠誠を誓っているが、この女好きだけな部分だけは許容できなかった。

『本当に勿体ないなぁ』

しみじみと呟いてしまうのは、目の前に転がっている宝をみすみす捨てるのも同然だからだ。

『空で輝く月も星も美しいが、決して儂の手には届かん。手に入らんものの方が輝いて見えるのは悲しいのう』

秀吉は弄んでいた扇を閉じる。
パチンと小さな音が廊下に響き、そして低い声がそれに続いた。

――彼の方を別の地。決して儂に気取られることのない場所へ預けてくれ――

知れば欲しくなる。
それなら、自分の目の届かない場所へやってしまうのが良い。
彼女の持ってるものは全て秀吉が欲しいものだ。
だが、それは決して秀吉のものにして良いものではない。



『あの方は信長様のものじゃて』



だが、やはり勿体ないのう、とそれでもまだ未練がましく呟く主君の背後で、影が静かに動いた。







   ◇◆◇   ◇◆◇







ふ、と意識が浮上した。
どうやら眠ってしまっていたらしい。
城門の前、粗末な茣蓙に座らされた姿勢のままで良くも眠れるものだと、三成はひっそりと笑う。
三成の処遇はまだ決まっていない。
大方どのような処刑にすれば豊臣恩顧の武将を黙らせることができるか考えているのだろう。
三成にとってはどうでもよいことだ。
解放されるなど最初から思っていない。
おそらく衆人環視の前で惨たらしく首を落とすつもりだろう。磔かもしれない。
せいぜい最期の時まで家康を詰り、秀吉を裏切った不忠者を罵ってやろう。
そんなことを思っていた三成は、三成を取り巻く人垣の隅に見えた姿に何気なく視線を移し、そこに立つ品の良い青年の顔を見て息を呑んだ。

(似ている……)

柔和な目元のせいで与える印象はあまりにも違うが、端整な顔立ちは三成の主君がかつて仕えていた人物に良く似ていたのだ。
背は高く人垣から頭1つ分抜き出ている。
広い肩幅もすらりとした立ち姿も、記憶の中の覇王を思い出させる。
誰も気づかないのが不思議なほどにそこに立つ青年は、亡き織田信長に似ているではないか。
彼は三成の視線に気づくと僅かに背後を振り返った。
そこから現れたのは頭巾を被った女性。
女性にしては背が高いが、隣に立つ青年がそれ以上に高いために気にならない。
青年の腕に手を添えて姿を見せた女性は、三成の視線に気づくと誰にも気取られない仕草で頭巾を外した。

はらりと流れる艶やかな黒髪。
涼やかな目元が印象的な、驚くほど美しいその顔立ち。
最期に姿を見てから既に18年という年月が経過している。
それなのにあの頃と何一つ変わらない美貌を宿した光秀が、そこにいた。

「…………っ」

思わず漏れそうになる声をどうにか堪えて、だが驚愕に見開かれる瞳だけはどうしようもなく三成は2人を見つめた。
柔らかな笑顔は記憶のものと寸分変わることはなく、女性の恰好をしているせいか嫋やかさは以前よりも増したかもしれない。
隣に立つ青年は光秀と良く似た目元をしているから、おそらく彼があの時腹に宿っていた子供であろう。
血の繋がりを考えるまでもなく良く似ていた。隣に立つ母に。そして覇王と呼ばれた父である織田信長に。
人目を気にしたのだろう、頭巾を被り直した光秀が深々と頭を下げる。
その瞳がうっすらと潤んで見えるのは、多分気のせいではない。

秀吉の目の届かない場所へと、美濃にある小さな庵に彼女を匿ったのは三成だった。
最低限の広さしかないそこはお世辞にも豪奢とは言えなかったが、それでも親子が隠れ住むには十分な広さだ。
何より秀吉が知らない住居だったために捜索の手も入らなかったはず。
三成の領地から不自由のないだけの禄がその庵に定期的に届くよう手配をして、家人として怪我の癒えた重蔵を派遣した。
足の筋を痛めた重蔵は武士としては使い物にならないが、頭の回転が速く気の利く男であったため何かと使えるだろうと判断してのことだ。
勿論重蔵自身が希望したというのも理由の1つである。

(男児だったか)

誰にも気取られることのないようにと一切の連絡を断っていたために、光秀が無事に子を産んだことすら知らなかった。
健やかであれば良いと願いつつも二度と会うことはないだろうとも思っていたために、こうして再び姿を見ることができるとは想像もしていなかった。
街道へと消えていく後ろ姿を見送りながら、三成の心はとても凪いでいた。

主家を護ることもできず、友を失い、家臣を失い、家族も領地も全て失った。
護りたいと思ったものは悉くこの手をすり抜けて消え、残されたのは己が身ただ1つ。
何とも虚しい人生よと嘆きたくなったこともあったが、それでも護れたものはあった。

幼い頃に抱いた憧憬。
優しく美しい人。
彼女が愛し守りたいと願った命を護る手助けができたのなら、それだけでもう十分だ。



家康との対面の後、三成は六条河原にて斬首。その首は三条河原にて晒された。
家康との対面で何を話したかは記されていない。
ただ、三成は対面後から処刑されるその時まで終始穏やかな笑みを浮かべていたと言う。
思いを馳せていたのは過去の日々か、それともこれから旅立つであろう黄泉の地か。
答えを知る者はいない。



  • 12.07.07