遠征から帰ってきた正則が美味い酒を貰ったと夕餉の席に持ってきたのがすべての始まりだった。
ドン、と目の前に置かれた樽酒から漂ってくる香りは成る程確かに芳醇で、これはそんじょそこらの酒とは比べ物にならないぞと喜んだのはまだ若い青年達。
秀吉が長浜城主となってから引き取られた養子兼家臣は総勢6人。
その中でも正則と清正は大の酒好きだし、行長と長政も何だかんだと言いつつ味には煩いから目の前の銘酒に興味津々だ。
若干苦い顔をしたのは吉継で、あからさまに不機嫌な顔を浮かべたのは三成。
吉継も三成も酒を飲むなとは決して言わない。
嗜むのは良いことだし、自身とて酒は決して好まないわけではない。
ただ、問題はその量だった。
宴席でもないのに用意された樽酒は総勢5つ。
下三段上二段に重ねられたそれは城主の秀吉と正室のねね、そして家臣兼子供たち6人で飲むには少々、いや、かなり量が多すぎる。
三成の脳裏には、間違いなく深酒を煽って翌日寝込むことになるだろう正則の姿が思い浮かんでいたことだろう。
秀吉が喜んでその酒に手をつけたために三成は飲むなという言葉を何とか飲み込んだ。
飲むのはいいのだ。飲むのは。
「くれぐれも飲みすぎるなよ」
正則と清正に向けて放たれたその台詞は、普段の2人の飲み方を知っているが故の忠告だったが、目の前に美味い酒があるのに水を差されたようで面白く思えなかった。
そんな三成を無視するように煽った酒は格別に美味しくて、三成の忠告はあっさりと脳内から押し出された。
そしてその結果。
酒によって気が大きくなった正則は先日の武勲を自慢するかのように腰に佩いていた剣を振り回して襖や柱に傷を作っていた。
秀吉は気持ち良さそうにねねの膝を枕にして眠っており、そんなねねは吉継の酌でかなりの量の酒をまるで水のように飲み、清正は時折頭上を行き交う座布団(長政と行長が何故か座布団を投げ合っている)を軽く交わしつつ素晴らしい速さで杯を空にしていた。
持っていた杯は興が乗ってきた正則によって、秀吉が最近手に入れたと言う熊の頭ほどもある大杯へと変えられていたが、器の大きさが変わったことにより酒を注ぎ足す手間が省けてかえって助かっていた。
飲む速度が2割増速くなったのはご愛嬌といったところか。
そんな酔っ払い連中の中で普段と何一つ変わらなかったのは三成だ。
眠る秀吉に上掛けをかけてやり、放っておけば酒しか飲まないねねに肴や水菓子を進めていたり、宙を舞う座布団を途中で奪い床に戻していたりしていた。
酒の席では素面でいるほうが損をすると言わんばかりの状況を体言している三成だったが、甲斐甲斐しく世話を焼いていたのも最初のうちだけで、その額には徐々に青筋が浮かんでいたのだが生憎酔っ払い連中には気付かれなかったようだ。
「いい加減にしないか、馬鹿者どもが!!」
そんな怒声と三成の武器が室内を舞ったのがほぼ同時だった。
飲み始めてから既に一刻。
三成が酔っ払いの世話に追われるようになってから半刻が経過していることを考えれば、今回の三成は普段よりも随分と耐えていたのだとわかる。
空気を裂く音と共に鉄扇が舞い、秀吉とねね、ついでにねねの隣にいた吉継以外の全員が吹き飛ばされた。
何が起きたのかとぽかんとしている酔っ払いの目に浮かんだのは、整った容貌を悪鬼の如き容貌へと変化させた三成。
美人が怒ると夜叉になるとはよく言ったもので、清正を始めその場にいた全員が三成の表情を見て言葉を失った。
「貴様らは馬鹿か! 秀吉様の城をこんなに荒らしおって! 正則! お前が傷つけたこの柱は天守の中枢の柱だぞ。これが折れれば天守は崩れるのだ! そしてその襖! 先日狩野派の絵師に描かせた逸品でどれだけ値が張ると思っている! お前の給金など軽く吹っ飛ぶほどの価値があるんだぞ! 行長と長政! 座布団は投げるものではなく座るものだ! 元服したくせに子供みたいなことをしているんじゃない! 清正! 貴様ははっきり言って飲みすぎだ! 翌日二日酔いになりたくなければ自重しろ!」
一気にまくしたてて肩で息をする三成は、反論したら斬るとばかりに鉄扇を構えている。
この中で武器を持っているのは正則だけだが、その刀も先ほどの三成の攻撃によって飛ばされてしまい天井に突き刺さっている。
だがたとえ武器がなくても反論はしなかっただろう。
いや、できなかったと言ったほうが正しい。
殺気にみなぎる三成はべらぼうに怖い。さすが年長なだけある。
女のような細腕でよくもまぁこれだけの技が放てるもんだと見当違いに感心してしまうのは、清正が相当酔っているからなのだが、生憎酔っ払いは自分が酔っていることを自覚しないものである。
「後はお前らで勝手にやれ。俺はもう知らん」
ぷいと顔を背けて部屋を出ようとする三成を清正は追った。
何故かは分からない。
謝罪をしようと思ったわけでもなく、反論しようと思ったわけでもない。
ただ何となく近寄り、何となくその肩を掴んだ。
大杯を持っている手で。
「おい、三な…」
清正が三成の肩を掴んだことにより斜めに傾いた杯から、大量の酒が三成に降り注ぐ。
頭一つ分背の高い清正の手から零れ落ちたそれは三成の髪と顔、そして服をしたたかに濡らした。
その瞬間、周囲から音が消えた。
正則は両手で頬を押さえて声なき悲鳴を上げているし、行長と長政はお互いの身体にしがみついている。
ねねはあらまぁと目を丸くしているし、吉継は清正を見て目線を伏せて頭を振った。
言葉にすればこの馬鹿がと言ったところだろうか。
秀吉は相変わらずねねの膝枕で夢の中だ。秀吉が一番幸せかもしれない。
「…あ、あのさ、三成…わざとじゃないんだ…」
声が震えているのは気のせい。
何となく足もカタカタしているような気がするけど、これは多分酔っているからであって、決して静かに冷気を醸し出してくる三成が怖いわけじゃないぞと心を奮え立たせているのは決して恐怖心からじゃない。
多分、きっと。現実を認めたくないだけなのは重々承知だ。
何を隠そうこの三成、清正より2歳年上とは到底思えないほど背も外見も年相応には見えないのだが、べらぼうに弁が立つ。
しかも相手の急所を的確且つ鋭く抉る名人で、彼が本気になれば言葉だけで相手に致命傷を与えることなど容易い。
たとえそれが年下であっても、たとえ(一応は)恋人と呼べるような清正が相手であっても変わらない。
その公明正大さはいっそ見事と言っていいが、酒が入ってるのだから多少は見逃してほしいと思うのが本音だ。
恋人同士の甘い関係?
ツンデレのツンしかないような三成がそんな温情を与えてくれるだろうか。いや、ない。
案の定、三成の額に青筋が浮かんでいる。
「…いい度胸だな」
ぞわり、と背筋に冷や汗が浮かんだ。
まずい、相当怒っている。
確かに頭から酒を被らされた日には怒り心頭だろう。
自分だったら間違いなく斬って捨てる。
ってあれ? そうなると斬って捨てられるのって俺じゃね、とか思ったのは無理のないことだ。
なぜならこんなに怒った三成というのを清正は今まで一度として見たことがないのだ。
怜悧な美貌には見事なまでに表情がない。
ゆっくりと清正を見上げ、その唇の端を持ち上げる。
濡れた髪が頬に張り付く様は正に水も滴るなんとやら。
むしろどことなく色っぽいのは三成の顔立ちが造り物めいて綺麗だからだろう。
だからこそその瞳に宿る光が恐ろしい。
加藤清正。10代半ばにして始めて土下座してでも許しを請うべきなのではないかと真剣に悩んだ瞬間である。
「わ」
「散れ」
悪かったという言葉はたった一文字しか言わせてもらえなかった。
鳩尾に強い衝撃。と同時に襲った顎への攻撃に清正の身体は宙を舞い、襖に叩きつけられた。
正則によって無残な姿となった高名な絵師の手による名画は、清正の体重を受け止めきれず真っ二つに粉砕し、清正の意識はそこで途切れた。
その数時間後、目を覚ました清正を待っていたのは秀吉とねねの説教、そして三成から告げられた修繕費全額負担という哀しい現実だった。
- 10.09.11