元親は光秀を気に入っていた。
凛とした佇まいは勿論のことだが、時折見せる初々しい姿もまた元親の目を和ませる。
いつだったか船を率いて援軍にかけつけた元親の前で光秀は、足元に打ち寄せては離れていく海水に対して戸惑っていたことがあった。
光秀が住む近江は海がない。
そのせいか、または潔癖な性質のためか海水で足元が濡れることを躊躇しているように見えたが、その姿は信長の側近として武勇を馳せている光秀のイメージとは随分違い、どこか途方にくれた子供のような表情だった。
あれはいい、と元親は思った。
魔王の側近として常に隙のない姿を見せているが、光秀の本質は戦乱の世に生きているとは思えないほど純粋で繊細だ。
信長を唯一の主と認めて仕え、その頭脳も技量も惜しみなく与えてはいるが、それも偏に光秀が願う未来のためだ。
戦のない平和な世。
光秀はそれを求め、今の時代にそれを成し得ることが出来るのは信長しかいないと思っていた。
そのために多くの命を奪い、国や民を疲弊させていったというのに、今になってそれが狂いを生じていくのだ。
光秀の焦燥は大きい。
特に信じた主が変貌していく姿に懊悩する姿は武将とは思えないほどに儚く、それと同時に隠し切れない艶を感じさせた。
その姿に、元親は織田家の家臣達がまことしやかに囁いている噂を思い出した。
光秀は閨働きで地位を手にしたのだと、そういう噂を立てる者は実は少なくない。
信長の寵童としては森蘭丸が有名だが、彼と同様に常に傍に侍る光秀にも下卑た噂があることを本人も知っているだろう。
そしてそれはおそらく噂だけでないことを元親は知っている。
信長が光秀を見る目にはあからさまに欲情を覗かせるものがあったし、時折戯れのように揶揄めいた言葉を投げる信長に対して、躊躇えるように恥らうように視線を伏せる光秀には情を交わした者が持つ特有の艶がある。
この時代の男色など珍しくない。
むしろ武士の嗜みの1つとして定着しているそれに元親は異を唱えるつもりなどない。
ただ、光秀が閨働きで側近の座を手にしているのだという噂を容認するかと問われれば、答えは否だ。
光秀の働きは治世は勿論だが、むしろ戦場でこそその才が発揮されることは多い。
虫一匹殺さぬような涼やかな外見をしていながら、その武勇は織田家髄一。
振るう剣の軌跡に気付かず命を落とした武将も多い。
だからこそ信長が信頼し傍に置いているのだろう。
人を見る目が長けている信長が、光秀ほどの逸材を手放すはずがないのだ。
そしてそんな信長を敬愛しているが故に、今の光秀は揺れている。
何度も提言した。懇願もした。
それでも信長の心を変えることはできなかった。
このまま信長が覇道を進めば、これから先どれだけの犠牲が出るか想像に難くない。
光秀には既にその未来が見えてしまっているのだろう。
逆らう者には悉く死を与え、恐怖で民を縛り付ける世が。
慈愛深い光秀にはそれが耐えられない。
だからこそ悩んでいるのだ。
初めて会った時から、元親は光秀を不安定な人物と推測していた。
そしてそれは正に真実だったということだ。
伏せた睫が怒りというよりも哀しみのせいで細かく震えている。
はらりと頬に落ちた黒髪がその秀麗な顔に陰を落とし、その艶にぞくりと鳥肌が立った。
女性と見紛うほどの美貌を持つ光秀だ。
刀身のように鋭い美を纏い、己の家紋である桔梗のように清楚で品のある立ち居振る舞い。
それまでにも何度か彼に対して欲を感じたことはあったが、無意識に見せる艶に息を呑んだのは今回が初めてだった。
成る程、信長が愛したのはこれかと元親は思った。
凛とした佇まいも美しいし、時折見せるはにかんだような笑みも良い。
だが、彼が苦悩し震える姿は又格別だった。
恐らく光秀の中で答えは出ているはず。
それでもこうして元親の元へやってきて心情を吐露するということは、支えが欲しいためか。
それとも、己の行動を肯定してほしいのだろうか。
豪胆でありながら繊細。元親は光秀のそんな性質を良く知っている。
背中を押すことくらい、容易いものだ。
「どうということはない」
元親の言葉に光秀が顔を上げる。
「手が血潮に濡れるだけだ」
選ぶにしろ選ばないにしろ、光秀に残された道は血塗れた道しかない。
流れるのが無辜の民の血か、信長の血か、それだけの違いだ。
代償は光秀の、そして元親の命。
賭けとしては対等。
命を賭けてこそ真の望みは叶えられるはずだ。
元親の言葉に、光秀は一瞬だけ瞠目し、そして感情を押し込めるように静かに目を伏せた。
再び開いた瞳でまっすぐに元親を見詰める。
迷いも躊躇いもあるだろう、だがそれを心の奥底に沈めた瞳は鋭く研ぎ澄まされた刃のようだ。
綺麗だと思う。だからこそ手に入れたいと。
元親は光秀の頬に手を滑らす。
壮年の男性でありながら、その肌はまるで極上の妓女のような滑らかさだ。
触れた手を拒まれなかったことに心が躍る。
選んだのは自分か、それとも光秀か。
「上等」
にやりと笑んだままその手で頭を引き寄せて光秀の唇を己のそれで塞ぐ。
愉しくなりそうだ、と元親はひっそりと笑った。
- 10.09.06